歌詞の内容が物議を醸すが | ノイズのなぐさめ

ノイズのなぐさめ

歪んだ美意識。
ちっぽけ 些々たる しがない
たわい無い 些末 末梢的
スマート、スィート、デンジャラス
大切なのは長く働くこと。

インディアナ州生まれ。6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習う。イェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選ぶ。

1915年、ブロードウェイ・ミュージカル『Hands Up』に楽曲提供し、本格的に作曲家として活動を開始する。しかし、翌年手がけた『まずアメリカを見よ』が、2週間で打ち切られるという挫折を経験し、その後パリに渡る。1918年、リンダ・リー・トーマスと出会う。コールは自分が同性愛者であることを告白するが、リンダが結婚に応じたという逸話があり、2004年に制作されたコールの伝記映画『五線譜のラブレター』(アーウィン・ウィンクラー監督)でも描かれている。ヨーロッパでも作曲活動を続け、1923年にはバレエ曲「Within The Quota」を作曲。しかし、依然として成功に恵まれず、1920年代後半に帰国した。

1930年、ミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』に「ラヴ・フォー・セール」等の楽曲を提供。この時も成功には至らず、逆に歌詞の内容が物議を醸すが、「ラヴ・フォー・セール」は後年スタンダード・ナンバーとなった。そして、1932年にはミュージカル『陽気な離婚(Gay Devorce)』が大ヒット。ここでフレッド・アステアが歌った「ナイト・アンド・デイ」は、コールの代表曲の一つとされる。1936年には映画『踊るアメリカ艦隊』に「イージー・トゥ・ラヴ」等を提供し、映画音楽の分野にも進出。

1948年、ミュージカル『キス・ミー・ケイト』が大ヒットし、トニー賞を受賞。その後も多くの曲を作るが、1964年、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなる。


[編集] 代表曲
使用されたミュージカルや映画と併せて紹介。


[編集] ミュージカル
1930年:ザ・ニューヨーカーズ(The New Yorkers) - 「ラヴ・フォー・セール」
1932年:陽気な離婚(Gay Devorce) - 「ナイト・アンド・デイ」
1934年:エニシング・ゴーズ(Anything Goes) - 「エニシング・ゴーズ」「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」
1935年:ジュビリー(Jubilee) - 「ビギン・ザ・ビギン」
1938年:リーヴ・イット・トゥ・ミー(Leave It To Me) - 「ゲット・アウト・オブ・タウン」
1943年:メキシカン・ヘイライド(Mexican Hayride) - 「アイ・ラヴ・ユー」
1948年:キス・ミー・ケイト(Kiss Me, Kate) - 「ソー・イン・ラヴ」
1953年:カン・カン(Can-Can) - 「アイ・ラヴ・パリ」
1954年:絹の靴下(Silk Stockings) - 「オール・オブ・ユー」

[編集] 映画
1936年:踊るアメリカ艦隊(Born To Dance) - 「イージー・トゥ・ラヴ」「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」
1937年:ロザリー(Rosalie) - 「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」
1942年:サムシング・トゥ・シャウト・アバウト(Something To Shout About) - 「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」
1955年:上流社会(High Society) - 「トゥルー・ラヴ」

[編集] 影響
コールの楽曲は、ジャズの素材として好まれた。エラ・フィッツジェラルド『シングス・ザ・コール・ポーター・ソングブック』(1956年)、オスカー・ピーターソン『プレイズ・コール・ポーター』(1959年)、ステファン・グラッペリ『プレイズ・コール・ポーター』(1976年)他多数のトリビュート・アルバムがある。
「イージー・トゥ・ラヴ」は、チャーリー・パーカーやハンク・モブレー等が取り上げた。
「ソー・イン・ラヴ」は、モートン・グールド編曲のバージョンが、日本のテレビ番組『日曜洋画劇場』のエンディング・テーマに使われた。
「オール・オブ・ユー」は、マイルス・デイヴィスのレパートリーとなり、アルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』に収録された他、初来日公演でも演奏された。モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット・トリオ等も取り上げる。
「トゥルー・ラヴ」は、ジョージ・ハリスンのアルバム『33 1/3』で取り上げられた。
伝記映画『五線譜のラブレター』では、アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、エルヴィス・コステロ、ダイアナ・クラール、ナタリー・コールなどがコールの曲を歌った。