バッハは対位法を好んだ。対位法とは複数の旋律を同時に聴く愉しみのための作曲技法である。対位法といっても時代によってさまざまで、ルネサンスの時代は旋法的対位法がさかんだったが、バッハは調性対位法の時代の最初の大作曲家といわれる。
フーガは対位法の用法のひとつ。ひとつの主題をソプラノ、アルト、テノール、バスなどで模倣したり、反復したりする音楽の遊び。カノンとおなじく、そのまま繰り返す場合もあれば、音符を長くして拡大したり、逆に短くして縮小したり、反行のかたちをとったりする。音楽における対称性のたわむれ。カノンとくらべて、模倣のときの制約が少ない。
バッハは生まれた。バッハの生まれる1世紀半まえ、マルチン・ルターがローマ法王にあらがって起こした宗教改革の拠点となった、その教会で。
バッハの家は、音楽一家。バッハは、8人兄弟の末っ子。バッハが9歳のとき両親が死に、14歳年上の兄が面倒をみた。兄は教会のオルガニスト、バッハに音楽も教えた。バッハは、写譜に熱中。写譜への熱中は後年に至るまで続いた。(後年、アンナ・マグダレーナと再婚後、バッハはじぶんの子どもに演奏や作曲を教えた。その教育方法は、和音の基本的なつなげ方を教えると、それをもとに対位法をつかって曲を作らせるというもの。
しかも作曲は「鍵盤をつかわず、机の上で行わなければならなかった」(ポール・デュ・ブーシェ著『バッハ--神はわが王なり』創元社刊)。バッハにとって、作曲のエッセンスは対位法だった。そして対位法に習熟するには、鍵盤をもちいることなく「音を書くことができる」・・・そこからが、出発なのだ。
18歳のとき、バッハは、町の教会オルガニストになる。(巨大なパイプ列、そのパイプの上の方、丸天上のあたりにはたくさんの天使たちがあしらわれている。オルガニストが演奏する舞台裏では、ふいご手が梃子を押し、風を送る労働に従事している。この時代のオルガニストの仕事の意味がよくわかる)。
22歳になったバッハは、マリーア・バルバラという女性と結婚、6人の子をもうけた。32歳の時、ケーテン公レオポルトの、宮廷楽士に。『ブランデンブルグ協奏曲』『無伴奏チェロ組曲』35歳、妻マリーアの死。翌年、21歳のアンナ・マグダレーナと再婚。38歳、バッハはライプツィヒという町の教会カントルに。カントルは4つの教会の聖歌隊の指導と、礼拝の音楽の指揮を毎日する仕事。カントルの仕事も、楽じゃない。あれこれ用途に合わせた曲を毎週作曲。『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ』。63歳、バッハは、フリードリッヒ大王の招待を受け、ポツダムという町へ。バッハは、フリードリッヒ大王から与えられた主題をその場でアレンジし、人々を驚かせた。後にこれが『音楽の捧物』に。
『フーガの技法』を21曲作曲するつもりだったらしいが、途中で病に倒れた。1750年、66歳。残された楽譜、未完の21曲目、193小節目からはじまる第3主題は、ドイツ音名でB-A-C-H (B♭-A-C-B)の4音からできている。