白紙で答案を提出したにも関わらず合格。 | ノイズのなぐさめ

ノイズのなぐさめ

歪んだ美意識。
ちっぽけ 些々たる しがない
たわい無い 些末 末梢的
スマート、スィート、デンジャラス
大切なのは長く働くこと。

風刺・風俗漫画家として一世を風靡した池部鈞の息子として、東京市大森区に生まれ、立教大学英文科に入るも、映画監督になるのを夢見て、在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入る。1941年、大学卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し、東宝に入社する。監督希望だったが、助監督の空きがなかったところ、島津保次郎監督に請われて、『闘魚』に脇役で出演する。それが好評となり、知的でスマートな若手俳優のホープとして目されたが、1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に召集され、中国山東省に派遣される。大学卒ということで士官試験を薦められるが任期が長くなる(兵隊のままだと任期は2年)ため断る。しかし上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにも関わらず合格。すぐに下士官待遇となり、1944年に南方戦線に移動される。途中、輸送船が撃沈され、命からがらハルマヘラ島に上陸し九死に一生を得る。その後は衛生中隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった。

1946年6月まで抑留され、南方から苦労して日本に帰る。俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝に熱心に請われ俳優に戻る。長身(174cm)と美貌を生かして、次々と主演作をヒットさせる。特に1949年の石坂洋次郎原作の『青い山脈』は、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットし、彼のさわやかな演技もそれにふさわしいものだった。その後も、青春スターの第一人者として活躍を続けた。その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。

『坊っちゃん』(1953年、岡田茉莉子共演、丸山誠治監督)、『雪国』(1957年、岸惠子共演、豊田四郎監督、『暗夜行路』(1959年、山本富士子共演、豊田四郎監督)などの多くの文芸作品で翳のある青年を好演し、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。

1955年9月、池部プロダクションを設立。自ら映画を企画し、ストーリーを書くようになる。

1960年代に入ると、徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した松竹『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。

1965年、映画俳優(石原裕次郎、里見浩太郎、山城新伍ら)が暴力団のために拳銃を密輸していた事が明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日、映画俳優協会代表理事である池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。

同年、『乾いた花』を観た東映よりヤクザ映画の出演を頼まれるが、映画俳優協会代表理事であることからそれを断る。しかし再三の丁重な申し出に「ポスターに名前や写真を出すときは小さくすること、刺青は入れないこと、毎回死ぬこと」を条件に引き受ける。準主演した『昭和残侠伝シリーズ』(高倉健主演、佐伯清監督他、1965~1972)は大ヒットし、味のある演技で新境地を開いた。

1990年代に入ると、俳優活動を控えるようになり、文筆業が中心となる。1991年、『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞する。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。