今の今まで体が動かなかった。

病気のせいかやる気がないだけか。。

誰にも分からないから考えない。
仕事を始めればそんなこと考える暇もない。

このさきどう転がるか楽しみに考えよう。
Osijek, Vukovar Croatia July 2006
2006年7月 クロアチア オシイェク、ヴコヴァル

首都ザグレブで車を借り、東のセルビア国境近くオシイェクで滞在、独立紛争時の激戦地ヴコヴァルへ行った。

旅行記

宿は民泊。
宿の主人の女性はクロアチア独立時に憲法起草に携わった弁護士だった。今はとっても平和な街になりこれからのクロアチアの発展を楽しみにしていた。


弟は将来学校を作り当時来るべきEU加盟に貢献したいと熱意を語る。

宿の裏におじいさんと孫たちとちょくちょく顔を合わせ、コーヒーを飲ませてくれる。おじいさんの世界地図でコミュニケーションを取ろうとするが、その地図は東欧革命以前のもので、ユーゴスラビア、ソ連のままの地図だった。


第二次世界大戦以来最悪の激戦地と言われるヴコヴァルの街は建物が蜂の巣のまま、市民は住み、レストランは営業していた。
当時既に15年以上経過しているのにである。


サラエボ行の夜行列車を待つ間、宿の主人の実家でお世話になる。お父さんに強い酒を勧められ、ほろ酔い気分でクロアチアの民家を見学できた。


団塊ジュニア世代の自分にとって、この地域の戦後15年は、彼らが戦禍の街で平和に過ごしているという矛盾に不自然さを感じざるを得なかった。

D.P.R.K. Sep. 2005
北朝鮮 2005年9月

そこにも我々と同じ生活をする家族がいる。

在北京北朝鮮大使館にて北京でのガイドと共にビザを取得しに行く。当たり前だが敷地に入れば北朝鮮の雰囲気バリバリだった。

旅行記

北京を出た高麗航空機はCAが通路を歩いたまま平壌に着陸。
入国審査を終えキョロキョロしていると、

「こんにちは渡邉さん」
ガイドが来た。日本にいても気づかない流暢な日本語だった。
パスポートを預け、その他若いガイド、運転手と4人の行動になる。

食事、観光、移動すべてガイド付。市民と話すことは単独では基本できない。当然当局が許可する街しか見られないのでこの国の本当の姿は見ることはできない。
開城市にてひとりふらっと飛び出してみたが、若いガイドに
「渡邉さん!ひとりで歩くと車が危ないですよ!」
車は一台も走っていない。

若いガイドは新婚で当時女の子が生まれたばかり。

目の前にいる人民も家族がいる。
ホテルのラウンジにいたら、仕事を終えた女性たちがカラオケを楽しみに来た。
女の子同士で笑ったり、じゃれたり我々と同じだった。


子供たちの発表会を見た。フィナーレで真ん中の男の子が転んで失敗してしまった。
僕はあの子は厳しく叱られるのかガイドに聞いた。
「子供は失敗して成長するものでしょう?日本も一緒でしょう?」
と言われてしまった。

このガイドとは夕食後ホテルの喫茶店でよく話した。
拉致の話、外交の話。
感情的にならず、冷静に、彼から「将軍様」という言葉を聞くことなく議論ができたことは驚きであった。

帰りは北京まで国際列車で移動した。
中朝国境での身体検査は厳しかった。僕はガイドから人民ウォンを内緒でもらっていたので、財布の縫い目に隠した。

若いガイドさんの娘さんも今は10歳くらいか。今でも家族と幸せに過ごしているだろうか。
政権に翻弄されていないだろうか。

この国にも罪なく暮らす家族がほとんどだ。

僕は安易にこの国をどうすべきかを主張できなくなってしまった。