つららつらつら、ネタバレ・脱線込みで、現時点の感想を綴ります。
1回目は幕見席、2回目は花道脇、3回目はセンターブロックから。
見える景色が毎回違う。桜の森を感じる程にのめり込んでいく。
幕見席では、舞台に敷かれた布に山が描かれているのが見えて、国の境を作っていく場面、鬼たちが四方に倒れ東西南北が出来ていく様は、上から見ているとより分かりやすい。
だけど、大仏の窓が見えない。
だから、窓際のマドンナと、俗物マナコが聖の象徴、大俗物の首を落としにくる登場が見えない。
耳男の彫ったバケモノを乗せて門が上がっていくと、それも見えなくなってしまう。
幕見席は、台詞と音に耳を傾けて聴き入るのが良さそう。
幕見席で、それも以前の「贋作・桜の森の満開の下」を知らずに原作だけ読んだ状態だったので、最初は台詞の大洪水に溺れた。
だけど、最後はしっかりと、夜長姫の怖ろしいけれどもときめくあの笑顔、あの声を抱き締めていた。
物語を覆う圧倒的な存在感。
満開の桜であり、落ちてきそうな青空であり。
2回3回と観るうちに、最初に溺れたあの台詞の大洪水が、心地よい流れに変わっていた。
舞台上を駆け回る役者の身体と同じように、台詞も劇場内を駆け回る。
駆け回って、ポンポンわたしの耳に飛び込んでくる。
台詞が、音から言葉へ変わっていく。
台詞と、声。
たぶん、わたしが歌舞伎にハマったのは、声の響きが気持ちいい、っていうのが理由のひとつだ。
だから、花道脇の席は贅沢だった。
鬼の道行が通り過ぎていく。
まるで桜の森にぽつんと落ちている小石の気分で、頭上に行き交う鬼の声を聞いていた。
謡うような、脅かすような。
桜の森に吸い込まれていく鬼たちの声。
さわさわと空気を揺らす鬼たちの衣擦れ。
今回のセットで印象的な桜の森。
花道が、その桜の森を劇場の奥まで拡げているようだった。
鬼がともに生きていた時代の空気ごと。
異空間に引き込む一方で、合間合間に笑いが散らばり、見せ場が散らばる。
夜長姫ショックが多少落ち着くと、周りのいろんな役の表情が浮かんでくる。
わたしの場合、真っ先にハンニャ。
ハンニャ、ほんとにかわいい。
そばにいるならあんな鬼がいい。
お迎えの時も、エンマ&ハンニャを指名したい。
歩きかたまでトテトテしてて。
キョロキョロッと黒目がつややか。白目もきれい。
でもナスターシャになるとかわいくない。
その変化があるから、余計にハンニャがかわいいのかもしれない。
同じ人(鬼)なのに。というか、第二部では伊之助なのに。
伊之助もハンニャも同じ巳之助さんが演じているというのが、いまだに受け入れがたい…
第一幕でつるんでいた鬼4人組が、第二幕では力で抑えつける側と抑えられる側に分かれるのも、何とも皮肉な展開。
鬼のように、ヒダの王様のように、マナコのように、元の自分のまま変わらずいる者たちは抑圧され、「人」として上手く振る舞うことができるものが力を持つということなのか。
イヤホンガイドで「鬼」には2つの意味があると言っていた。
伝説上の存在、そして、もうひとつは逆らう者。
「阿弖流為」では、朝廷が自分たちに従わない蝦夷の人々を「鬼」と呼んでいた。
「鬼」だから退治しなければならない、倒すのが正義だ、と。
「鬼」と呼ばれ帝人軍に立ち向かった染さんが、「桜の森」では「鬼」たちを利用して権力を掴む。
人を騙し、鬼を騙し、権力に執着し、権力に行方に怯え。
そして自分に都合のいい「鬼」を作り出す。
耳男が、逃げた。鬼が、逃げたぞ!
鬼ごっこ、という言葉の怖ろしさ。
標的にするために仕立てられた鬼。
第二幕のオオアマには「朧の森に棲む鬼」のライの面影もあって、わたしはライに引き摺りこまれて今歌舞伎を観ているようなものなので、生でそのトーンの声を聴くと、怖ろしさと同時に、つい喜んでしまう。
しょっぱなの登場シーン、イルカを背負って無表情で歩いてくるところといい、早寝姫と戯れるときのステップといい、日本書紀を戻すときの引き具合といい、ちょこちょこ笑わせてくれるし、鼓も鳴らしてくれる。
3人の偽匠がミロクを彫る場面は台詞ではなく、音が重なっていく。
ノミを打つ音、刀を打つ音、いつの間にかオオアマは鼓を取り出している。
両袖から現れた群衆の鳴らす音も加わって、高まって、そして引いていく。
音だけでどんどん血が沸き立ってくる。
歌舞伎の音と声にゾクゾクする。
赤鬼とハンニャが声を揃えて発声するところも、ゾクゾクした。
一人ひとりで声を発するときの個性が抑えられているのが不気味で、「重なったこの声!」と興奮してしまった。
歌舞伎の声の響きってすきだ。
見得を切るところ、くっきりとキャラクターを浮き上がらせるところではたっぷりと響き、引くときはぐんと引く。
呼吸から、気配から、闇や森や抽象的な存在になって、がらんとした空洞に吸い込まれていくように消えていく。
原作を読んで思い描いた景色はもっとひっそりと仄暗い「桜の森」だった。
それが野田版歌舞伎になって、「耳男と夜長姫」の話が加わり、青空という存在が加わり、鬼という存在が加わって、ずいぶん印象が変わった。
喜怒哀楽入り混じった生身の世界と、桜の森の異空間。
対比するようで混ざり合う、二つの世界。
昼と夜。表と裏。聖と俗。人と鬼。神と鬼。
ウラハラな二つの世界、二つの存在。
それは両方ともほんとうなのかもしれない。
しあわせと、せなかあわせのふしあわせ。
「願いとは?」と聞いた耳男に、「『呪い』ともいう」と無邪気に答える夜長姫。
そのトーンで、そういうことを言うのが、夜長姫だと思った。
善悪の色をつけずに、ただじっと見る。
だから、見えないものも、見える。
いろんな登場人物に乗り移りながら、観てる。
いろんな眼で、見る。
耳男の透明な眼、マナコのまっすぐな眼。
マナコは自ら「俗物」といいながらも、いちばんまっすぐだ。
赤坂でも観たな、ヒーローはジャイアン。
花道から飛び出すときの直線、立ち回りで兵を切り崩すときの直線、オオアマと都とを両天秤にかけているときだって、清々しいぐらいまっすぐな裏切りっぷりだ。
自分で自分を「俗物」と認識しているから、ああまでまっすぐなんだろうか。
大金を欲しがってみせても何に使うわけでもない、だけど命を投げ出す覚悟で飛び出していく、斬りかかっていくマナコ。
そのマナコから、「眼」を奪うという仕打ち。
まっすぐな眼は邪魔ということか。
マナコの直線に対して、ミミオは柔軟、螺旋の変化。
最初に桜の森で感じていた感覚から、一度遠ざかり、そしてまた取り戻す。
取り戻すけれど、夜長姫と出会った前と後では違うから、螺旋。
勘九郎さんはこういう役似合うな。
くるくる表情が変わる。
弱さも愛嬌、動きと声と表情と、自然に惹きつけられる。
耳男とマナコの同級生的な関係も、なるほどと思った。
耳男は耳から入ってくる周囲の評価、マナコは目から入ってくる対価としての評価を気にする。
そんな「俗物」的同級生、勘九郎さんと猿弥さんの間の空気がほんとに楽しい。
切り株を彫るときの見様見真似がいつの間にかフライパンあおりになっていたり。
励ましたり、じゃれ合ったり、二人乗りしたり。
でも、独りになってしまうんだ、耳男は。桜の下で。
1回目を観た後は、ただただ夜長姫の声と笑顔に圧倒されていたけれど、2回目の後は、また別の感覚。
物語の中へ入り込んだまま抜け出せない一方で、観客としてのうれしさもひしひし感じる。
作品そのものが生きもののようで、登場人物の一人ひとり、鬼たちも、群衆も、役そのもの。
1回目に溺れた台詞の渦がだんだん心地よくなってきて、台詞の仕掛け、別の意味に気づく瞬間、炭酸の泡が弾けるように、パチッ、パチッと身体に飛び込んでくる。
そして3回目を観た後は、不思議と穏やかな気持ちでいる。
これはたぶん、最後の耳男の心境に近い。
失くしたものと、わかったこと。
好きなものは呪うか殺す、争うかしなければならないの。
ただいまわたしを殺したように、立派な作品をつくってくださいね…
耳に残る、あの声。
「彫る」匠、という設定が視覚的にもわかりやすかった。
匠、名人、作り手、芸術家、表現者… 何かをつくるということは、独りで彫り上げていくしかない。
ミロクだろうとバケモノだろうと魂の宿る作品にするために、自分の中の業、自分を押し潰そうとする圧倒的な存在と闘って、彫り上げていく。
あるいは、木のかたまりに閉じ込められた自分の姿を掘り出しているのかもしれない。
バケモノになれー、そう叫びながらノミを打つ耳男。
名人になりたい、そう願うことが、同時に名人になることに囚われる呪いにもなる。
どのような評価を得るのかではない、どれだけ強い想いを形にするかで、お前のなりたいものになるんだよ。
夜長姫の最後の言葉は、耳男を解放しているのか、それとも永遠の呪縛か。
きっと耳男はもう、桜の下から動けない。動かない。
ただあの笑顔で、すべてを受け容れた泣き笑いのあの笑顔で、まじないを呟くんだろう。
いやあ、参った。参ったなあ…
つららつらつら、止まらない。
今度観た後には、どんな言葉がわたしの耳の奥に残っているんだろう。
どんな瞬間が眼の奥に焼きつくんだろう。
謎だらけのようで、全部、答えなのかもしれない。
意味を求めてもしょうがないか。ね、ハンニャ。
ハンニャ、遊びに意味なんか求めたってしょうがないと思うのね。
桜の森を体感すること。
巡る余韻に身を委ねること。
この作品を観られて、よかった。