久々に、書いておきたい!とブログ編集画面立ち上げたら、前回の投稿が「野田版 桜の森の満開の下」観劇時だった。
やっぱりこの作品には刺激されやすいらしい。
映画の初回は解説付上映で。
「わからなくていいんです。こういうお話は、わかる、
確かに。わからないから、いつまでも想いを巡らせていられる。
何の準備もなく桜の森へ飛び込んでみる。
ああ。
ほんとうに、この景色だけで。
幕開けの桜の森。
舞台美術の堀尾さんが「商店街フラワー」って仰ってたけれど、
劇場の空間を、転換の流れをデザインする。
堀尾さんのトークショーは、
久しぶりの桜の森。
花びらがぽそぽそと落ちてくるだけで、涙がこぼれる。
なんの名前もつけたくない涙。
膨れ上がる感情にも、名前をつけたくない。
「鬼の息吹がかかるところがなくちゃ、
鬼の気配。鬼のいる、桜の森の気配。
ひっそりと、
鬼の息吹を感じていたのかな。
もう一度、あの感じを体感したい。
花道そばの席で感じた、鬼の道行の衣擦れ。
古代遊園地のジェットコースターに乗る鬼たちが走り抜けるときに
劇場ならではの体験。
シネマの強みは、
歌舞伎役者の眼の色、声色の迫力には、
台詞の応酬はいつしか心地よいリズムを生んで、耳の中でこだまする
マナコも耳男も、眼と耳を奪われて俗との繋がりを絶たれ、
わたしは無理だ。
もっともっと、眼も耳も全開で、
スクリーンで観るヒメのアップはすごかった。
こんな表情の変化だったのか、
そして、最期の表情はこんなに穏やかで満ち足りた顔だったのか。
夜長姫と耳男がまさに夜長姫と耳男だったのはもちろん、
歌舞伎を観始めたきっかけは、「朧の森に棲む鬼」のライ。
だから、二部のオオアマのわるーい、いやーな奴の感じ、ぞくぞくする!(
声といい、眼つきといい。
幸四郎さんはライもオオアマも、徹底的にいやーな感じを出してくるのが、いい。
内臓がムカムカするような嫌な奴だけど、半端なく振り切って嫌な奴過ぎて、呆然としつつ見入ってしまう。
でも、一部のオオアマも、それはそれで…早寝姫とスキップで登場する場面とか、クセになる。
それに、なんといっても、ハンニャ。
ハンニャがかわいい。
話し方、歩き方、
切り落とされた耳を杯で受けたり、
二部との落差があるから余計かわいいのかな。
ヘンナコに向かって「シャーッ!」と威嚇するとこは、
ハンニャロはハンニャロの存在感があって、赤名人とのユニゾンの台詞
発声が、演劇にも音楽にもなる瞬間。
こういう瞬間があるから、面白い。
鬼の変化。俗物の変化。
かけ離れているようで、紙一重の世界。
他愛のない遊びでカンを転がれば、こころが開けば、
何かを手放せば、何かを手に入れるのかもしれない。
あてども無く思いを巡らせていると、ふっと無邪気な場面も思い浮かんできたりして。
耳男とマナコの同級生な感じ、ほんとかわいい。
全力で猿弥さん追いかけまわす兄。
猿弥さんの「なっかむーらくーん」「ばいばいきーん」、
比喩の自転車に二人乗りするときのヒソヒソ話も、だいすき。
兄の声は、じわじわ浸み込んでくる。
「まいったなぁ~」「さぁ、いこう。さ~いこう~」
耳男の台詞は、言いたくなる。
夜長姫の台詞は、言われたい。
「みぃーつけたッ!」
怖いけれど、ときめくんです。
また劇場で観たいな。
劇場で、鬼の、桜の森の、気配を感じたい。
目の前で景色が転換する、その時間の流れも感じたい。
それに、あんまりシネマでは映っていなかったけれど、歩いている姿が観たい。
それぞれの役の個性、場面ごとの雰囲気があって、たとえ後ろ姿でも、舞台袖にはけるための移動だとしても、観ていて「ああヒメだなぁ」「ハンニャだなぁ」と感じながら見送っていた。
終わらない堂々巡り。
こんなふうにいつまでも作品と戯れていられる時間はしあわせ。
