地震当日。
わたしは、相棒と実験室にいた。

大きな揺れとともに、機器や配管がきしむ音。
放射性廃棄物を封入したドラム缶が横倒しになるくらいの揺れ。
間違いなく、今までに経験したことがない大地震だった。

小刻みで大きな縦揺れの後、横に大きく振られ座ったままの私は立てずにいた。

『地震発生、震度4』
(こんなに大きな揺れは、震度4じゃないだろう!)

携帯やテレビの緊急地震速報とは別に、施設に取り入れた速報放送が流れた。

と、同時に、実験室のすべての電源が落ち、補助電源に切り替わった。
照明は非常灯のみ。空調も全て落ちたので、大地震後の静寂は逆に不気味だった。

『あ、マスクしなくちゃ。。』

とっさに「マスク携帯している人は着用!」と怒鳴った。

隣の実験室にいた同僚が「早く非難して!」と怒鳴りながら私のいる実験室に入ってきた。

最低限の安全上の確認。。1トンの実験装置を乗せたテーブルが動いていた。。すごい加速度。。

簡単な身体汚染検査をしている最中、

『訓練だったら、ここに放射線管理者が来て、汚染検査をしてくれるはずだけど。。』
これは訓練じゃない。もう、みんな避難してしまった。

やっと実験室から出た私は、実験棟と管理棟の廊下に段差ができていたことに気付く。
(そんなに大きな地震だったんだ。。と、実感。)


外に出て人員掌握し、とりあえず、いったん居室に戻る。
私の机上は普段から地震に遭ったみたいにぐちゃぐちゃになっているが、
さすがにお茶室の食器類には参った。。


『あ、ママや子供たちはどうしたろう。。』

と、思っているところに、また大きな地震。。外に出た。携帯電話を持って。

もちろん、通話はつながらない。。ママ、長女、長男に一斉にメールを送信。

『パパは無事、そっちは?』

一番早く回答してきたのは長女。
「外にいたから大丈夫。みんなは?」

なかなか連絡がつかない。職場の仲間も、皆同様に家族と連絡を取っているようだった。

そのとき。。
『大津波警報が発令されましたので、建て屋2階以上に避難してください。』

私の職場は、海がすぐ見えるところ。小高い松林の向こうは海で、堤防などない。
建て屋は海抜8mくらい、ということで少しくらいの津波なら大丈夫、と思っていた。

『大洗で4mの津波を計測。全員3階以上に上がってください』
と、さらに緊迫した放送が流れた。

さらに。。屋上に上がったひとから「引き潮を確認した!」と切羽詰まった情報が。。

わたしは不謹慎にも、屋上から救助に来たヘリコプターに手を振っている情景を浮かべてしまった。。
これは後々、後悔の種にもなっている。。と、悠長に考えているところに、

『全員、建て屋から待避して、高台に避難してください!』

と。。最初は建て屋後ろの高台に歩きかけたが、ちょっとだけ気持ちに余裕が持てたので、駐車場に戻り車で移動を始めた。結局、私の職場は水没することはなかったが、大きな被害が出ている海岸地区では、考えたり、後戻りしたときに津波にのみ込まれてしまったようであり、それを教訓とするなら、やはり私も車に乗らず、そのまま歩いて高台に向かうべきだったのかもしれない。。

高台に避難し、少し落ち着いたところで、長男からメール。
長男は携帯電話を使い始めてまだ一週間も経っておらず、使い方もままならないのに。。

『まりなむかえにきた』『まりないる』『じいちゃんちにいる』

この短いメール3通で、想像力豊かな私は。。

『お兄ちゃんが妹を小学校まで迎えに行き、無事に帰ってきて、父の家に避難している。しかも、じいちゃん、ばあちゃんも無事』

と、解釈した。

その間も、長女からメールがあり、無事だけど、当然電車も動いていないので、学校に泊まる覚悟を決めた、とのことであった。たまたま、長女の学校が避難所に指定されたことがラジオで放送されていたので、ここは学校と、長女の対応力に委ねるしかない、と判断した。その長女の携帯電話も電池がそろそろなくなりかけているらしい。

家族のほとんどの無事を地震後2時間で確認できた。携帯電話ってすばらしい。。

でも、この時点で、まだ、ママの無事を確認できていなかった。。