職場も、大地震から2時間もすると、落ち着きを取り戻し、今のそれぞれの状況を確認し始まった。津波も、すでに大きなものは各地に到着しているそうなので、取り急ぎ、自分たちの場所は大丈夫そうだった。

安心して、高台から遠巻きに見ていると、

『当施設は、5:15で施錠します。入居者は各自、正門に向かってください。』

事実上の「ロックアウト」である。
核燃料を相当量保有している施設のため、保安上の措置、ということなのだろう。
忘れ物を取りに施設に向かう見慣れた皆が出入り始めた。

わたしは、いったん、高台に避難して車を駐めた後、皆が集まっている場所に向かったので、事の次第は見届けていたが、中には本当に自分の家が気になり、就業時間を前に自宅に向かう人たちもいた。この時点で、大きな指示もなく、基本的には、各自の判断に任されていたようだった。私は、自分の部下が全員無事であることを確認して、私自身の今後の行動について、結論を出した。

『とにかく、まずは家に帰ろう。』

そう思ってから、職場の正門を出るまでに2時間かかった。

私はここで初めて、文明の利器である『iPad』を開いた。
大きな地震、大きな津波。。まだ、この時点のニュースはこれだけ。

まだまだ、心にゆとりがあったのか、久々に、BLOGを更新する。

『今は無事です。。ママ以外の無事は確認。。』と、第一報を綴った。

ばねさん、めにいさん、ミミさん、ひよこさん、こまめさん、こうちゃん、るかさん、ピーターさん、まりんさん、にこさん。それから、多くの閲覧していただいた方々、だいぶ心配掛けましたが、ようやく、『あのときのこと』を書いてみる気持ちになれました。m(_ _)m

車は本来15分で通過できる構内道路を2時間かけて通過することになってしまった。その間、普段は厳つい守衛をしている方々が、差し入れのペットボトルを持って、車の列を回ってくれた。そのときの話だと、私の自宅に向かう方向の道路が地震で陥没し、通行止めに遭っている、とのことであった。

そうでなくても、ラジオの情報だと、長女が避難している隣町の学校まで行く道路の全てが通行止めに遭っているらしい。。橋の安全が確認できていない、とのことであった。ローカルラジオの情報である。

そのときのラジオが、また、危急性を誇示するかの内容であった。

『水戸に向かう、全ての国道の橋が陥落、もしくは安全が確保できていないため通行止めです』

この時点で、水戸方面への帰宅者は当日中に自宅に帰ることをあきらめたとか。。

正門を出るまで、数時間を要したが、出てからはかなりスムーズに車は走った。
ただ、普段帰る道とはぜんぜん方向が違う。それでも、スムーズに進むから、道の選択には間違いはなかったのだろう。

家までの中間点、ここが第一関門だった。
片側が陥没。。当然、停電状態なので普段点灯している信号も点っていない。
行き交う車同士の暗黙の了解で、少しずつ入れ替わり通行した。案外スムーズだった。。

家に帰るまで、行き交う車のヘッドライトとテールランプしか点っていない国道。
それでも、ある程度の秩序を持って、交差点は運行していく。。

地震当日と言うこともあって、まだ、心にゆとりがあったのかもしれない。


家に着くまで、何を考えていたか。。

実は、『47インチのブルーレイドライブ付き薄型テレビ』を買って、まだ一週間も経っていなかった。一応、転倒対策はしていたが、ちょっと心配であった。

ただ、『ママと、まだ連絡が取れていないな。』

と思った瞬間『テレビとママ、どっちが無事が良いか』を考えた。
もちろん、考えるまでもなく、

『テレビは、あきらめるか。。』と、思っていたのである。

そんな状況だから、家について、ママの車がなかったことに不安がよぎり。。

テレビが無事であったことが、わたしの心臓を逆撫でした。

『もしかして、ママに何かあったの?!』


と、言うのは全くの取り越し苦労で。。


ママは、地震後、まずは真っ先に家に帰ってきて、家族全員(?!)の無事を確認後、自分の任務を全うしに、再び出勤した、ということだったらしい。じいちゃんの家で皆と合流して、初めて分かった。

家に帰ってから、長女のメールで、

『同じ地区の子たちもいるから、学校に泊まる。ママは同級生のママさん情報で無事らしいヨ』とのことであった。

我が家は、近所の県営アパートにいた私の弟家族(総勢5人)と、ママ、長女以外の我が家家族、それにじいちゃん、ばあちゃんの計10人が12畳の和室にゴロ寝する震災第一夜を迎えることとなった。。