内閣官房参与を辞任したことの意味。。


机上の学問が、現実問題を突きつけられ、自分の考えを貫けなくなるほど心が折れた。

とは思いたくない。


東工大学閥が多い首相ブレーンの中に居づらくなった。

とは思いたくない。


沈没する船から逃げ出すネズミ。

とは思いたくない。



 私の職場は、3月11日の震災で被害を受け、未だにまともに仕事ができる状況ではないが、追い打ちを掛けるように福島原発の事故の影響で、環境的にも仕事を再開するには厳しい状況が続いている。

 元々放射能を扱う職場だったので、放射能による汚染、被爆には、神経質とも思えるほどの徹底した管理がなされていた。職場の放射線線量はBG(バックグラウンド)で0.2μSv/h以下、高いところでも20μSv/h以下となるよう管理し、一日の被曝線量もなるべく10μSvに抑えようということで作業管理をしている。

 その職場が、今、普通に空気を吸っている公園や、学校の校庭、家庭のリビングよりも『放射能的にきれいな場所』と言われているのだから職業的にも『この日常』を受け入れるのに、かなりの日数を要した。

 実際、職場の機能を回復すると、外気の汚染を巻き込むことになり、万が一、放射能汚染が発生しても、仕事で発生した汚染なのか福島原発事故による環境汚染に起因するものなのかの判別がつかず、放射線管理上も非常に高度で複雑な判断が要求される。そのため、外気を取り入れる装置を地震後、いや、福島原発事故後、起動していなかった。

 そのように、職業柄たたき込まれてきた放射能に対する常識を覆すような家の周りの環境汚染を受け入れたきっかけは、現在の一般環境中の放射能量は、50年前の東西冷戦時、大気圏中の核実験による環境汚染とは比較にならないくらい低い数字だ、という事実を知ってからである。少なくとも、私が住んでいる茨城は『そのデータが残る東京』から地球規模で見たら目と鼻の先、なのである。

 起きてしまった事故は過去を書き換えられないし、『今、生きている』ということも事実。


 福島原発事故でのフォールアウト(放射能を含む降下物)最大日の翌日。

 私は長男と二人で、近所の自転車屋さんに自転車の修理をお願いに行った。
 その歩きながらの道中。。

『もしかしたら今回の原発の事故で放射能がたくさん降って、今すぐ死んじゃうことはないと思うけど、将来、癌になって寿命が短くなるかもしれない。もちろん、そんな未来でも癌の治療方法は進んでいると思うけど。だから、残りの人生を充実させなければな。』

 と、話した。長男は分かってか、分からないでか、

『そうなんだ。。』

 と言った後、今一番興味があるテレビゲームの話に切り替えられた。


 その当時、今より、もっと深刻な事態を想像していた私は、実は一番怖がっていたのは私自身だったということを思い知らされた。



 私も怖いのだから、相当な責任を負わされた内閣官房参与も辛かったのだろう。

 しかし、自分が一番専門とする分野で、一番実力を発揮しなければならないその場所を与えられたのに、なぜ、その任務を全うせず、辞任したのか私には悔しくてたまらない。 せめて、野に下っても、決して自分の理論や考えを曲げず、子供たちを守るために戦ってほしい、と願っている。



 私の仲間も、福島の現地に応援に行った。
 もしかしたら、私にも応援の要請があるかもしれない。

 取り急ぎ、職場の機能がGW開けに回復しそうである。
 すでに福島からのサンプルが届いていると聞いている。

 私にできることは、目の前のサンプルに対して、普段の仕事以上に気迫を込めて取り組むこと。そのことが将来、自分の子供たちのためにもなるのだから。