次の主日、教会ではマルコ福音の「重い皮膚病」を患った人がイエスによって癒される場面が朗読される。
聖書の世界では病は本人や親、もしくは親類や先祖が犯した罪の結果と捉えられていた。よって、関わることを明らかに拒むこと、隔離されて罪人の扱いを受けることは、この当時の文脈にあっては極めて当たり前の態度であった。病人を忌み嫌う事を誰も咎めることはなく、憐れに思う事をあらわにすることは、ひいては同じ罪の傾きを持つものと烙印を押されてしまう可能性があり、もしかしたら憚られる、そっと心にしまっておくしかない状況であったのかもしれない。
特に重い皮膚病の人たちは共同体から隔絶され、人々の近くを通る時には「わたしは穢れたものです」と叫びながら、人々の喚起を呼びながら街を通らなければならなかったと言う。
ただでさえなりたくもない病を得て、その病のゆえに「清くないもの」と言う烙印を押され、人々から「穢れている」と除外されるだけでなく、「清さ」を損なわないために自分が病を得たものである事を叫ばなければならないとは、なんともしんどい暮らしだったのではないだろうか。もちろん、この場合の「清い」「清くない」も疫病や衛生的なものはなく、また、完治しているかしていないかでもなく、「バランスを欠く」ことが「清くない」と言う独自の発想というか「清さ」関する当時のイスラエルの遊牧民的概念に基づいているので、現代社会で印象を受ける「清い」もしくは「穢れ」とはかなり違うということを念頭に置いておきたい。特に、日本の神道や習俗にある「みそぎ」や「浄め」「水垢離」と言った発想とは全くの違いがあることを知っておく必要がある。
にしても、イエスに「清く」なる事を願った男性はこのような社会状況の中で、人であるにも関わらず思い皮膚病で本来的バランスを欠いてしまった「業病」を負ったものとして生きていたわけで、その心中、辛さ、絶望、清さへの渇望と同時に自己破壊欲求、神ですら認める隔離された扱いを、どのように感じ、苦しみ、憤り、求め、生きながらえていたのか、44歳になってあちこち心身ともにガタがで始めた僕であっても、やはり想像に余りある。
この男性はイエスの足元に跪き、「お望みならばわたしを清くすることがお出来になります」と願うわけです。そこでイエスがとった行動は当時の人々の態度、己の「清さ」が損なわれぬよう、口を覆いその病人から走り去っていくという常識的行動とは真逆の姿出会った。
イエスはその男性を憐れに思い、手を差し伸べ、その男性に触れて「わたしは願う、清くなれ」とその男性の病を癒すわけです。
この後で、司祭に見せて癒しの確認を得るまで誰にも話さなようイエスは「沈黙命令」をするのだが、マルコは度々奇跡治癒物語や奇跡的な出来事の後には必ずイエスの「沈黙命令」を付記しているようだ。
この沈黙命令は祭儀上必要なことでも、神秘的もしくは道徳的な沈黙でもなく、フォーカスがずれないためのキーワードと言えるだろう。では何からフォーカスがずれないためか?それは、神の子メシアの道は十字架の道であり、栄光の王でも、力ある業でもなく、十字架の死に引き渡され死ぬ神の子こそ紛れもなくわたしたちの救い主なのだという、マルコ福音に一貫して描かれている十字顔の神学から目がそれないために「沈黙」が必要なのかもしれない。
当時の病人を取り巻く理解や現実にあって、イエスは思い皮膚病の男性を憐れに思い、手を差し伸べ触れる。決して特別扱いはしてはいないが、イエスの行動原理は当時の世俗や宗教指導者たちのものではなく、神の選びの行動原理である。世の中で立派な人は確かに立派ではあるが、神の選びにおいてはそれが特別視されることはなく、立派ではないとされている人々に神の選びの眼差しが注がれる。特別扱いするわけではないが、神の選びのゆえに除外もしない。ただそれだけのことである。
イエスの宣教の中では奇跡治癒物語がいくつか語られている。治癒そのものがエピソードであるというより、その背景にある人と人の恣意的なやりとりの中でイエスはただ神の選びに従い、十字架への道を歩んで行く。人を人とも扱わない当時の病人にまつわる文脈においてなされたイエスの行動そのものは、それはすでに十字架であるが、癒しと奇跡を語り広められることは、十字架へと向かうメシアの道を阻むものとなる。なんとももどかしい、苦しい話である。
次の主日、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」と定められている。1858年、フランスのルルドの洞窟でベルナデッタ・スビルーと言う名もない、学もない、幼い女性に聖母マリアが御出現された記念日でもある。この時聖母は、この田舎の貧しく病弱で標準的なフランス語の教育も受けられなかった少女に、その現地の方言で、しかも敬語を使ってお話になっている。
十字架の道とは、生活のいたるところに隠れ潜んでいる小さな道であり、パラダイムの変換であり、心に納めていく作業なのかもしれない、と最近になって思う。
聖母を通してキリストへ倣う者である恵みを願い求めると当時に、このわたしに注がれる、丁寧で変わることのない愛の眼差しを、人知れず感謝のうちにたくさん注いでいただき、キリストの十字架に結ばれるものとされたいものである。