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Verbum Caro Factum Est

僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

次の主日、教会ではマルコ福音の「重い皮膚病」を患った人がイエスによって癒される場面が朗読される。

聖書の世界では病は本人や親、もしくは親類や先祖が犯した罪の結果と捉えられていた。よって、関わることを明らかに拒むこと、隔離されて罪人の扱いを受けることは、この当時の文脈にあっては極めて当たり前の態度であった。病人を忌み嫌う事を誰も咎めることはなく、憐れに思う事をあらわにすることは、ひいては同じ罪の傾きを持つものと烙印を押されてしまう可能性があり、もしかしたら憚られる、そっと心にしまっておくしかない状況であったのかもしれない。

特に重い皮膚病の人たちは共同体から隔絶され、人々の近くを通る時には「わたしは穢れたものです」と叫びながら、人々の喚起を呼びながら街を通らなければならなかったと言う。

 

ただでさえなりたくもない病を得て、その病のゆえに「清くないもの」と言う烙印を押され、人々から「穢れている」と除外されるだけでなく、「清さ」を損なわないために自分が病を得たものである事を叫ばなければならないとは、なんともしんどい暮らしだったのではないだろうか。もちろん、この場合の「清い」「清くない」も疫病や衛生的なものはなく、また、完治しているかしていないかでもなく、「バランスを欠く」ことが「清くない」と言う独自の発想というか「清さ」関する当時のイスラエルの遊牧民的概念に基づいているので、現代社会で印象を受ける「清い」もしくは「穢れ」とはかなり違うということを念頭に置いておきたい。特に、日本の神道や習俗にある「みそぎ」や「浄め」「水垢離」と言った発想とは全くの違いがあることを知っておく必要がある。

 

にしても、イエスに「清く」なる事を願った男性はこのような社会状況の中で、人であるにも関わらず思い皮膚病で本来的バランスを欠いてしまった「業病」を負ったものとして生きていたわけで、その心中、辛さ、絶望、清さへの渇望と同時に自己破壊欲求、神ですら認める隔離された扱いを、どのように感じ、苦しみ、憤り、求め、生きながらえていたのか、44歳になってあちこち心身ともにガタがで始めた僕であっても、やはり想像に余りある。

 

この男性はイエスの足元に跪き、「お望みならばわたしを清くすることがお出来になります」と願うわけです。そこでイエスがとった行動は当時の人々の態度、己の「清さ」が損なわれぬよう、口を覆いその病人から走り去っていくという常識的行動とは真逆の姿出会った。

 

イエスはその男性を憐れに思い、手を差し伸べ、その男性に触れて「わたしは願う、清くなれ」とその男性の病を癒すわけです。

 

この後で、司祭に見せて癒しの確認を得るまで誰にも話さなようイエスは「沈黙命令」をするのだが、マルコは度々奇跡治癒物語や奇跡的な出来事の後には必ずイエスの「沈黙命令」を付記しているようだ。

 

この沈黙命令は祭儀上必要なことでも、神秘的もしくは道徳的な沈黙でもなく、フォーカスがずれないためのキーワードと言えるだろう。では何からフォーカスがずれないためか?それは、神の子メシアの道は十字架の道であり、栄光の王でも、力ある業でもなく、十字架の死に引き渡され死ぬ神の子こそ紛れもなくわたしたちの救い主なのだという、マルコ福音に一貫して描かれている十字顔の神学から目がそれないために「沈黙」が必要なのかもしれない。

 

当時の病人を取り巻く理解や現実にあって、イエスは思い皮膚病の男性を憐れに思い、手を差し伸べ触れる。決して特別扱いはしてはいないが、イエスの行動原理は当時の世俗や宗教指導者たちのものではなく、神の選びの行動原理である。世の中で立派な人は確かに立派ではあるが、神の選びにおいてはそれが特別視されることはなく、立派ではないとされている人々に神の選びの眼差しが注がれる。特別扱いするわけではないが、神の選びのゆえに除外もしない。ただそれだけのことである。

 

イエスの宣教の中では奇跡治癒物語がいくつか語られている。治癒そのものがエピソードであるというより、その背景にある人と人の恣意的なやりとりの中でイエスはただ神の選びに従い、十字架への道を歩んで行く。人を人とも扱わない当時の病人にまつわる文脈においてなされたイエスの行動そのものは、それはすでに十字架であるが、癒しと奇跡を語り広められることは、十字架へと向かうメシアの道を阻むものとなる。なんとももどかしい、苦しい話である。

 

次の主日、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」と定められている。1858年、フランスのルルドの洞窟でベルナデッタ・スビルーと言う名もない、学もない、幼い女性に聖母マリアが御出現された記念日でもある。この時聖母は、この田舎の貧しく病弱で標準的なフランス語の教育も受けられなかった少女に、その現地の方言で、しかも敬語を使ってお話になっている。

 

十字架の道とは、生活のいたるところに隠れ潜んでいる小さな道であり、パラダイムの変換であり、心に納めていく作業なのかもしれない、と最近になって思う。

聖母を通してキリストへ倣う者である恵みを願い求めると当時に、このわたしに注がれる、丁寧で変わることのない愛の眼差しを、人知れず感謝のうちにたくさん注いでいただき、キリストの十字架に結ばれるものとされたいものである。

 

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毎年のことなのだけど夏の終わりから秋の始まりまでどうも調子が良くない。かといって調子を良くしようともさほど思わない。なかなか動いてくれない自分の頭と体と、それを焦っている自分とが、なんとか仲良く一つの体で同居してくれればいいやくらいな感じで静かに鈍く暮らしている。

 

以前は良くなければ、良くなっていかなければならないと強迫的に思ったが、最近はそうは思わなくなった。良さへの衝動は世の中に突き動かされる呪いめいたもののように思う。不健康で不健全な日や時期、部分や側面があってもいいではないか、と最近とみに思う。

 

次の主日、教会では出エジプト記、テモテへの手紙、ルカによる福音から朗読される。出エジプト記の中からアマレクとイスラエルの戦いの場面が選ばれている。この中でモーセは神の杖を持ってその腕を上げている間、戦いはイスラエルが優勢になり、腕が下がるとアマレクが優勢になった。モーセの腕を上げ続けるために石を持ってきてモーセをそこに座らせ、アロンとフルがモーセの腕を支えたのだから、どうも滑稽に思えてしまう。

 

優勢を得続けるため、戦いに勝つがためにいい大人が神の杖を持ったモーセの腕を腕ごと支えるのならやはり滑稽だ。この旧約の記事で忘れていけないのはモーセが神の杖をもち手を挙げイスラエルの勝利を得たことではなく、神の思いを生きる民は、神を利用する民にもすぐなり得るということ。アマレクとは神に敵対する動きの象徴だが、このアマレクの記憶を天の下から消し去るというくらい強い怒りの表現は、神の思いを生きよというシンプルでダイナミックなメッセージのように思う。

 

ミサの中で聖体制定句が唱えられた後、司祭は御聖体を奉挙し会衆に聖別された御聖体を顕示するわけだが、この所作が象徴する出来事の一つにこのモーセの神の杖を持った手を挙げる出来事が含まれるように思う。

 

杖には権威、手を挙げるという動作には祝福の意味があるが、神の杖を持って手を挙げる、つまり、神の祝福が今ここであるというその時、神の意志を示すために選ばれた民イスラエルはアマレクとの戦いで優勢を得る。人は神の祝福のゆえに神の敵対する動きに負けることなく、神の意志に生きることができるのだということ。同時に神の意志に反する自分たちの益のために神の祝福を利用するものとなってはいけないことを教えてくれる。

 

では神の意志はどこにあり、神の意志とは一体なんなのだろうか。

 

この日の福音では神を神とも思わぬ裁判官とやもめの譬え話を通し、神が夜も昼も叫び求める人々に応えないはずがないことを教えている。この世の中を見る時、本当に神に頼るより他どうしようもない叫びに神が応えられた跡を見ることができるだろうかと思わず問いたくなるほど違っているように思う。

 

神の祝福に与り共に生きる現実は力の中ではなく痛みの中にあるのかもしれない。神を利用し人々を消費し手段にしている権力やマンモンの前では、神が望まれる神の祝福などなんの役に立つものかと、諦めと自嘲もこめつつ思ってしまう。だが、今日も神はご自身の祝福をおおよそ力からは程遠い姿のうちに、十字架と同じように傷の中に表される。御聖体という静かな秘蹟のうちに。

 

闇がなければ光を理解しない。光があることを知らなければ闇を恐れるが、キリストという光を知っており、わたしたちのうちに光としてとどまってくださる現実を知っているのなら、わたしたちキリスト者は闇をも引き受けていくことができるはずであるし、光を知っているからこそ、闇を引き受けていかなければならない。

 

同じようにキリストの傷がなければ神の愛を知り得ないのと同じように、わたしたちの傷も傷自体は決していいものではないけれど、その傷を得たゆえに知り得る事柄、見えてくる世界もある。その傷がなければ知らないで済んだ出来事や世界はこのわたしにとってかけがえのないものであったかもしれない。キリストの傷に結ばれていくということは、なすがままに傷つくのではなく、できてしまった傷を、空いてしまった穴を、意味あるものへ変えていくということ。

 

同じようにまったく静的なものは果てしなく動的なものを内包しており、静けさはわたしたちにその向こうのダイナミックな世界へと導いてくれる。

 

今日も御聖体のイエス様は静かにわたしたちの所にやってきてくださる。ご自身の傷を示し限りないいつくしみでわたしたちの間にとどまり、わたしたちを違いを超えて互いに一つに結びつけてくださる。わたしたちが「共にいてください」と願う前にすでに共に在り、共にいてくださることに気づかされたわたしたちはエマオの弟子のようにこの世へと遣わされるだろう。自分自身と和解するために。そして人々と、世界と和解するために。

 

聖母の扶けを願いつつ神の果てしないいつくしみに信頼して今日という日を渡ってゆきたい。

 

この上なく高く栄光に満ちておられる神さま

わたしの心の闇を照らし、

正しい信仰、

確かな希望と完全な愛、

感じる心と深く知る恵みをお与えください。

こうして主よ、

あなたのとうとい、 誠の掟を守ることができますように。

アーメン

(アシジの聖フランシスコがサン・ダミアノの十字架の主の前で捧げた祈り)

 

 

 

次の主日教会ではルカ福音10.38-42が朗読される。

イエスはマルタとマリアという姉妹のところに訪問するが、当時のユダヤ社会では親族でない女性と一人で話すことや訪問することは常識的にありえなかったようだ。もちろんこの背景には幾つかの理由があるのだけれど、それは一旦置いておいてもイエスのこの行動は非常に新しいものだと言える。

もう一つ、律法(トーラー)の勉強や会堂での勤めといったいわゆるみ言葉への奉仕は男性に特化されていて、女性はその男性を支えることで間接的にみ言葉に使えるという発想だったという。今日でもシナゴーグで行われる安息日の礼拝に行くと富裕層以外のユダヤ人女性の数は男性よりも少ない。イエスの時代と同じように安息日の食事の準備に追われているからとのことである。

イエスを迎えたマルタとマリアの基本的な姿勢は実は変わらない。一つはイエスのみ言葉に渇望しているというところ。もう一つはイエスとの近さ。そして二人ともイエスというみ言葉に仕えているところだ。

マルタにしてみたらマリアと二人で準備を済ませてしまえば、二人揃ってイエスの足元でイエスのみ言葉に聞くことができたかもしれないという思いがあったのかもしれない。二人揃ってみ言葉に仕えたかったと言ってもいいだろうか。ただマリアは早々にイエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入っている。

ここにマルタの様々な葛藤、み言葉への渇望からくる葛藤であるはずなのに、いろいろなものに引っ張られマルタの心はせわしなさに支配されてしまう。ここで「せわしない」という言葉はギリシャ語の「ペリスパオー」の訳で「中心から引き離される」という意味である。マルタは様々なものに葛藤している。イエスのみ言葉への渇望、イエスへの尊敬やもてなしに専心したい葛藤、イエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入る羨望、そして当時の社会が期待する女性の役割といった様々な心的圧力や価値観、マリアやここには出てこない人々との比較からくる苛立ちや焦り、そんな意に反して本質から引き離されてしまった人の姿をマルタのうちに描き出されている。

結局マルタが何をしたかというと、客人が帰ったのちマリア本人にチクチクと叱責喰らわすわけでもなく、弟子の一人でもとっ捕まえて愚痴るわけでもなく、マルタはイエスに直接訴える。直訴するのだ。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ここで思うのはマルタとイエスの近さ、親密さだ。というのも、イエスに直訴してしまえるというのはなかなかの近さでなければできないように思うのだ。

そのマルタに向かってイエスは答える。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ここでイエスはマルタの名を二度呼んでいるが、これは親しさや愛情の表れである。ここでもうイエスとマルタの距離は実に近いことがわかる。そしてイエスはうまくかけて答えている。いろいろのもてなしのためにせわしなくなっていたマルタに「多くのことに思い悩み, 心を乱している」と諭す。「マルタよ、マルタよ、そんなにせわしなくもてなす必要はないんだよ、ご飯なんて大皿ひとつみんなで分けりゃいいじゃないか、マルタもこっちへ来て座ったらいいよ。」というイエスの声が聞こえてくるように思う。それなればよっぽどのんびりした人でもなければマリアが「ちょっと台所見てきますね、先生」となるかもしれない。

この箇所は誰が賄いをするのか、誰がみ言葉に聞きその奉仕に専従するのかという話ではない。仕える、もてなす、奉仕する(全てギリシャ語「ディアコネオー」に含まれている)は本質的に一緒であり、大事なのはその本質から引き離されてしまわないことなのではないだろうか。

また、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とイエスは言うのだが、ここの「取り上げる」は未来形で、「(イエスのみ言葉は)なくなることはない」となる。すなわち、マリアが選んだのはイエスの足元に侍ることでも、マルタにお給仕を任せっきりにする厚かましさでもなく、永遠に取り去られることのない命の言葉を選んだのだよ、とイエスは言っているのではないだろうか。そのみ言葉は当たり前だがマリアだけでなくマルタにも開かれているわけであり、ひいては今日このみ言葉に触れるわたしたちにもひらかられ、招かれているのである。

イエスという独身男性が親戚でもない女性の家、しかも家主が女性という何らかの事情を抱えた家を訪れ、男性の働きであるはずのみ言葉への傾聴に専心している妹を叱責するよう懇願する姉に、あなたも中心を見失ってはならないよ、と優しく諭す。イエスのこれらすべての出来事は、当時の常識では考えられないほどの新しさだったのではないだろうか。

マルタの中には、イエスへの思いがあるけれど、どうしても逃れられないような社会が期待してくる思いや役割や立場など、様々な価値観と力に引っ張られてしまい、福音という中心から引き離されてしまっている現実がある。このマルタの心中に、現代社会の教会とキリスト者の姿が映されているように思える。

わたしたちが生きている中で、対人であろうと自分の内面であろうと、教会にあっても社会でも様々な問題や衝突を避けて通ることはできない。だが、その何か良くないものをすぐに吐き出してしまわず、一旦心に収めることができるものでありたいと思う(できてないから書いているのだが)。一番大事なことから引き離されてしまわぬように、すべてのことを心に納めていた(ルカ2.51)聖母の扶けを願いつつ次の一週間も過ごして行ければと思う。