マルタの親密さとイエスの新しさ | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

次の主日教会ではルカ福音10.38-42が朗読される。

イエスはマルタとマリアという姉妹のところに訪問するが、当時のユダヤ社会では親族でない女性と一人で話すことや訪問することは常識的にありえなかったようだ。もちろんこの背景には幾つかの理由があるのだけれど、それは一旦置いておいてもイエスのこの行動は非常に新しいものだと言える。

もう一つ、律法(トーラー)の勉強や会堂での勤めといったいわゆるみ言葉への奉仕は男性に特化されていて、女性はその男性を支えることで間接的にみ言葉に使えるという発想だったという。今日でもシナゴーグで行われる安息日の礼拝に行くと富裕層以外のユダヤ人女性の数は男性よりも少ない。イエスの時代と同じように安息日の食事の準備に追われているからとのことである。

イエスを迎えたマルタとマリアの基本的な姿勢は実は変わらない。一つはイエスのみ言葉に渇望しているというところ。もう一つはイエスとの近さ。そして二人ともイエスというみ言葉に仕えているところだ。

マルタにしてみたらマリアと二人で準備を済ませてしまえば、二人揃ってイエスの足元でイエスのみ言葉に聞くことができたかもしれないという思いがあったのかもしれない。二人揃ってみ言葉に仕えたかったと言ってもいいだろうか。ただマリアは早々にイエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入っている。

ここにマルタの様々な葛藤、み言葉への渇望からくる葛藤であるはずなのに、いろいろなものに引っ張られマルタの心はせわしなさに支配されてしまう。ここで「せわしない」という言葉はギリシャ語の「ペリスパオー」の訳で「中心から引き離される」という意味である。マルタは様々なものに葛藤している。イエスのみ言葉への渇望、イエスへの尊敬やもてなしに専心したい葛藤、イエスの足元に侍ってみ言葉に聞き入る羨望、そして当時の社会が期待する女性の役割といった様々な心的圧力や価値観、マリアやここには出てこない人々との比較からくる苛立ちや焦り、そんな意に反して本質から引き離されてしまった人の姿をマルタのうちに描き出されている。

結局マルタが何をしたかというと、客人が帰ったのちマリア本人にチクチクと叱責喰らわすわけでもなく、弟子の一人でもとっ捕まえて愚痴るわけでもなく、マルタはイエスに直接訴える。直訴するのだ。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ここで思うのはマルタとイエスの近さ、親密さだ。というのも、イエスに直訴してしまえるというのはなかなかの近さでなければできないように思うのだ。

そのマルタに向かってイエスは答える。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ここでイエスはマルタの名を二度呼んでいるが、これは親しさや愛情の表れである。ここでもうイエスとマルタの距離は実に近いことがわかる。そしてイエスはうまくかけて答えている。いろいろのもてなしのためにせわしなくなっていたマルタに「多くのことに思い悩み, 心を乱している」と諭す。「マルタよ、マルタよ、そんなにせわしなくもてなす必要はないんだよ、ご飯なんて大皿ひとつみんなで分けりゃいいじゃないか、マルタもこっちへ来て座ったらいいよ。」というイエスの声が聞こえてくるように思う。それなればよっぽどのんびりした人でもなければマリアが「ちょっと台所見てきますね、先生」となるかもしれない。

この箇所は誰が賄いをするのか、誰がみ言葉に聞きその奉仕に専従するのかという話ではない。仕える、もてなす、奉仕する(全てギリシャ語「ディアコネオー」に含まれている)は本質的に一緒であり、大事なのはその本質から引き離されてしまわないことなのではないだろうか。

また、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とイエスは言うのだが、ここの「取り上げる」は未来形で、「(イエスのみ言葉は)なくなることはない」となる。すなわち、マリアが選んだのはイエスの足元に侍ることでも、マルタにお給仕を任せっきりにする厚かましさでもなく、永遠に取り去られることのない命の言葉を選んだのだよ、とイエスは言っているのではないだろうか。そのみ言葉は当たり前だがマリアだけでなくマルタにも開かれているわけであり、ひいては今日このみ言葉に触れるわたしたちにもひらかられ、招かれているのである。

イエスという独身男性が親戚でもない女性の家、しかも家主が女性という何らかの事情を抱えた家を訪れ、男性の働きであるはずのみ言葉への傾聴に専心している妹を叱責するよう懇願する姉に、あなたも中心を見失ってはならないよ、と優しく諭す。イエスのこれらすべての出来事は、当時の常識では考えられないほどの新しさだったのではないだろうか。

マルタの中には、イエスへの思いがあるけれど、どうしても逃れられないような社会が期待してくる思いや役割や立場など、様々な価値観と力に引っ張られてしまい、福音という中心から引き離されてしまっている現実がある。このマルタの心中に、現代社会の教会とキリスト者の姿が映されているように思える。

わたしたちが生きている中で、対人であろうと自分の内面であろうと、教会にあっても社会でも様々な問題や衝突を避けて通ることはできない。だが、その何か良くないものをすぐに吐き出してしまわず、一旦心に収めることができるものでありたいと思う(できてないから書いているのだが)。一番大事なことから引き離されてしまわぬように、すべてのことを心に納めていた(ルカ2.51)聖母の扶けを願いつつ次の一週間も過ごして行ければと思う。