こんにちは、大阪校・名古屋校講師の河端です

いつもトレードの話ですが、

 

本日は気分転換に番外編です。

 

カブックス通信 番外編! ひこにゃんシリーズ 3

 

「黄門さまの子孫と対決はじめた ひこにゃんのご先祖!」


黒船が浦賀に現れた!!

 

日本の近代史ではここが最大のターニングポイントと言ってよい。


要するに鎌倉時代の「元寇」以来の外敵の侵略である。

 

しかしあの時とは違う。


世界では「産業革命」が起きていた。


欧州や米国は知っていた。土地に入り込んだ

 

植民地支配よりも

 

開港させ不平等な条約結ぶことが

 

最も手間がかからなく、

 

旨味がある支配の仕方だと・・


日本は鎖国し、250年海外の情勢は

 

まるで知らなかった。

 

外では産業革命が起こり、

 

文明の近代化が進んでいる。

 

海外の先進国は汽車、車など街で走っているときに、

 

日本では飛脚と馬、である。

 

もちろん蒸気船など見たこともない。


今でいうと、「東京スカイツリーの上空に

 

どでかいUFOが4体現れた!」ぐらいと同じ衝撃であろう。

 

アメリカ大統領の親書をもって

 

アメリカ艦隊総督ぺルリ(ペリー)が上陸した。

 

 

要求内容は・・・・

開港、補給、救助など、とにかく

 

日本に開港を迫ったのである


実は徳川幕府は長崎からそろそろ、

 

黒船が来ることは伝えられていたが、

(というか7年前に一度・ジェームスピドルという奴が来ている)

 

具体的な対策を打てずに、

 

モジモジしていた。


そして本当に来てしまったのだ。

 

対応策は大まかに 3つ

1 闘うか

2 要求受け入れるか

3 引き延ばすか


もちろん徳川幕府が選んだのは

 

3の引き延ばしである。(なんだか、今と変わらない)

 

闘っても勝ち目はないことは判断できたのは・・正しい。

 

とりあえず引き延ばし、1年後再びペリーとの交渉に臨む

 

ということにした。

江戸幕府老中首座の阿部正弘は
(このとき実質・徳川幕府ナンバーワン)は

 

打開策は打ち出せない。

 

ここで阿部正弘がやったことは

 

『幕府だけではなく、他の藩の人たちにも考えてもらおう』

 

薩摩藩、越前藩、水戸藩、長州などの有力大名、

 

その他旗本などに意見を聞いた。


しかも朝廷の意見をも聞き、

 

帝(みかど)に認めていただくという

 

勅許(ちょっきょ)という方針をとった。
(なんて弱気な政策だ)

 

これまで徳川幕府が一手に行ってきた対外政策について、

 

他の藩や朝廷が意見を言える場面を作った。

 

これは、正しいことに聞こえるが、

(実際には正解だが)徳川幕府側から言えば

 

他の藩に発言権と権力行使の糸口を

 

渡してしまったといえる。


裏返すと、徳川幕府は極度の

 

人材不足に陥っていたことがわかる。

 

たとえ優秀な人材がいても、取り上げられる

 

システムがないのである。

 

徳川幕府は開設以来、250年職業選択の自由はない、

 

世襲制、身分差別ガチガチの封建体制をとってきた。

 

そのため、もう危機に対処できる骨格がなく

 

もう組織体としては寿命なのである。

 

正直腐りきっていたが、

 

規模だけはどでかい大組織である。

 

 

そこへ存在感を増してきたのが、

 

水戸藩藩主 徳川斉昭(なりあき)である。

(文字通り水戸黄門の子孫)

 

徳川斉昭も水戸藩の藩主になり、改革を断行してきた。

 

身分にとらわれない人材投与、農村改革を行った人物である。

 

水戸藩は江戸に近く、大津浜など南北に

 

緩やかな海岸を持っていたことから

 

外国船に上陸されやすい地形にあったこともあり、

 

要は他の藩より鋭敏に黒船の問題を考えていた。


水戸藩は徳川の御三家、であるが、国学の水戸学は

 

強烈な「尊王攘夷思想」である

 

斉昭が主張したのが、

 

「断固闘って黒船打ち払え!」である

 

斉昭は海防参与の職につき 本当に黒船と闘う気でいた。


水戸藩の寺の鐘を集めて溶かして 大砲にした

 

他 東京の石川島造船所に

 

洋式軍艦の建造依頼!(現在のIHI(旧石川島播磨重工業))

※余談だが、石川島造船所は160年後の今は宇宙船作っているんだから考えるとすごい!


これに真っ向から対立したのが、

 

ひこにゃんのご先祖・井伊直弼である!

 

いま外国と闘えば、100%負ける!今は闘うときではない!

 

「開国し国力を付けてから、一戦交える」というのが直弼の考えである。


斉昭は危険思想家として、江戸幕府の保守派から敬遠される。


幕府では内紛が起こっている。

 

やはりどこでもそうだが、組織が長く続き、機能不全起こす時には

 

お家騒動をやる。

 

自体は複雑になっていった。

 

そんな中、再びペリーが来港

 

「日米和親条約」を締結する。

 


そして内紛は対外政策だけではなく

 

お世継ぎ問題まで発展している


今の将軍は病弱で、奇行がある13代将軍

 

家定(いえさだ)くん

 

多分もうすぐあの世行きになるから・・。

 


徳川斉昭を中心に、越前の松平春嶽、

 

薩摩の島津、土佐の山内、宇和島の伊達などは

 

こんな時やから、次の将軍は有能な人物

 

「一橋慶喜(よしのぶ)さんにしよう!」運動が高まる。

 

井伊直弼らの保守派の徳川幕臣たちは

 

「ちょっと待て!」

 

「お前らに関係あんのか?徳川家のことやろ」

 

「徳川宗家守るのは俺たちや!」

 

「しかも慶喜って、水戸の老人(斉昭)の子どもやんけ!アホぬかせ!」

 

ということで、保守派は血筋の近さで、

 

紀州(南紀)家の慶福(よしとみ)くん 7歳を推す。

 

「おいてめーら、気は確かか? こんな時に次の将軍が7歳って」

 

「うるさい水戸の老人(斉昭)が権力握りたいのは見え見えや!」

 

とお家騒動

 

一橋派 VS 南紀派

 

簡単に言うと

 

改革派 VS 保守派

 

ともいえる。

実はこの政争、一橋派(改革派)が優位に立っていた!

 

もうあと少しで、一橋慶喜が時期将軍に決まる

 

というときに、、「あっ」と驚きの人事が起こる


劣勢だった南紀派の最後の裏工作が功を奏す。

 

井伊直弼を大老職につけるのである。

 

大老 とは老中の上、政務が困難な時に

 

特別に置く、非常時の職である。


将軍の意見をも上回るだけの権力を持った役職である。

 

なぜ井伊直弼は周りの反対がありながら大老職についたのか

 

それは血筋と慣例がある。

 

これまでの江戸時代5人大老になったが

 

その内3人は井伊家から出ている。

 

しかも二回もやった井伊家のお殿様もいる

 

この時代は血筋なのである。

 

井伊直弼は、やはり赤備えなのだ。

 

ひこにゃんの使命は徳川幕府(徳川宗家)を守ることなのである。

 

しかも保守派は大奥を取り込んでいた。


水戸の老人(斉昭)は、豪胆なお殿様だったためか

 

大奥に入って何度か痴漢行為をしたことがあるため

 

めっぽう大奥での評判が悪かったのである。

 

やはり女性を敵に回すとろくなことがない。


保守派の意向を受けた、水戸の老人大嫌いの

 

大奥の女性陣が

 

将軍の家定君を大奥にいるときに

 

「井伊直弼を大老にして!」

 

「うんと言わないと、お部屋に返してあげないよ!!」

 

と言ったのである。

 

家定君は「いやだお部屋に帰りたい!」

 

「お部屋に帰って遊びたい」

 

「もうそれでいい」と言ったのである。


やはり、なんだかんだ言っても将軍権力は絶大なのである。

 

ということで、逆転で井伊直弼・大老就任!

 

南紀派が政争に勝つのである!

 

ひこにゃんのご先祖、とうとう大老就任する!

 

井伊直弼は一橋派を抑える政策をとる

 

そしてここから、あの有名な

 

日本を揺るがす

 

「安政の大獄」が始まるのである・・。


これからどうなる!!お家騒動!!!?

 

次回へつづく