今日は4年前、惜しくも他界してしまった恩人を紹介したい。
4年半前の春、彼がまだ存命の時に思い出を綴ったものをそのまま記しておきたい。
だってまだ彼は僕の心の中では現役で指揮をされている指揮者なんです。
【山本栄太郎さんは、故渡辺暁雄氏に指揮法を学び、ルドルフの「グラマー・オヴ・コンダクティング」を習得した指揮者である。
しかし、「指揮者に引退はない。生涯勉強である。」を信条に、音楽研究と指揮の勉強に余念がない。
近年は指揮法の教本よりも生きた指揮を学びたいと、世界一流指揮者達のライヴ録画を繰り返し見ながら、 各指揮者の音楽表現や指示の仕方、良いところも良くないところも克明にメモをとる。
100本に及ぶVTRと今まで綴った大学ノートが最高の教材である。
「あとは実践するのみ!」と、次の本番に意欲を覗かせている。
長年に渡る中学校教員生活を終え、いよいよ本望に向って踏み出した。
私が山本先生に出会ったのは35年以上前。
私の吹奏楽人生に彼は大いなる影響をもたらしている。
私は学生時代、練馬区の社会教育団体である武蔵野吹奏楽団を立ち上げ、指揮をすることになったが、 同時に練馬区内の中学校の吹奏楽部の指導者として各学校にお邪魔することになった。
石神井南中学校の吹奏楽部は山本先生が赴任され、本格的に吹奏楽部がスタートしたばかり。
私もお手伝いに参加した。
山本先生は褒め上手。
生徒も私も益々音楽に熱中した。
どちらかと言えば私はスパルタ主義で生徒たちに接し、まだ大学生の私は、音楽的にも経験が浅く、指導者としては未熟であった。
そんな私をいつもフォローし、不足分を補ってくれたのが山本先生である。
合奏中に怒り狂って指揮棒を投げつける私に脅えていた生徒もいただろう。
そんな生徒を励ましながら、 廊下にオルガンを持ち出し、一人一人のパート譜をなぞるように弾きながら、個人指導することに徹した山本流指導法は、 吹奏楽部を短期間で上達させたのだ。
吹奏楽コンクールでは2年目から金賞の連続となった。
私も自らの市民バンドや各スクールバンドの指導に明け暮れていたが、 指揮台に立つ機会が増えた私は、山本先生の指揮を見て勉強した。
私が吹奏楽指導を本職とするようになってからも、根底には彼の多大なる影響が根付いている。
先生は中学生を指導しながらも、私を鍛えていたに違いない。
石神井南中が出場するコンクールも、 1年おきに山本先生、私、山本先生、私、と指揮を交代でしたのも、必ずどちらかがフォロー役になるためだった。
吹奏楽指導者、言わば地味な仕事かも知れないが、何百、何千の子供たちに影響を与えた山本先生は、“ノーベル音楽賞(?)”に値する。彼の教えのもと、音楽家や指導者になった教え子たちが、今は各方面で活躍している。
山本栄太郎スピリットは永遠に受け継がれて行くことだろう。
この老練な指揮者の夢は、これからも指揮台に立ち続け、人々に感銘を与える音楽を作ることである。
聴衆が彼の登場を待ちわび、拍手で彼を迎える光景を夢見る。
コーダの余韻が消えると、待ち構えていたかのようにスタンディング・オベイション。
これは古今東西、指揮者であれば誰もが見る最高の夢。
この夢がある限り、これからも日々勉強が続くに違いない。
時々、吹奏楽指導者協会の会合でご一緒するが、帰り道は決まって思い出話に花が咲く。
最近は、温泉友達と相成った。】
以上、4年半前に綴ったものですが、山本先生は4年前の夏に天国に召されました。
「指揮者に引退はない。生涯勉強である。」とおっしゃっていた先生ですから、最近の私の指揮ぶりを天国から見ていて、きっと苛立っていらっしゃるかも知れません。
私は以前のような体力がなく右手の神経に違和感があり指揮の限界を感じています。
指揮者は仮に手が使えなくても、音楽をリードする存在感が必要なことは言うまでもありません。
でも自信を失いかけた時に思い出すのは、山本先生が指揮をする姿。
僕も教えを守り、最後までやらなくてはなりません。
今日は日本を代表するジャズ・トロンボーン奏者の一人、原田靖氏をご紹介しよう。
長崎県諫早市出身のジャズ・トロンボーン奏者である。
一歩間違えば「内山田洋とクールファイヴ」のメンバーとなっていたかもしれない。
前川清とは先輩後輩の仲。
「一歩間違えていればもっともっと金持ちになっていただろう。」という話をしてくれたのは一昔前のことである。
我が国を代表するジャズトロンボーンの職人。
高音の甘美な音色の虜となっている人は数多い。
ファン・クラブを所有する数少ないジャズマンであるが、ジャズと言っても、野球に例えるなら、全てのポジションをこなすプレーヤーである。
ディキシーからスウィング、モダンジャズまで天才技を聴かせてくれる。
いつどこで会ってもまず笑顔で迎えてくれる紳士である。
初めて会ったのは25年近くも前のことだろうか。
「前田憲男とウインドブレーカーズ」との仕事の時だった。
リハーサルでしっとりとバラードを吹いていた。
ゆったりしたメロディーを音の切れ目なく演奏するのは、トロンボーンにとってとても至難な奏法であるが、実に美しく歌い上げていることに感動した覚えがある。
前田憲男氏が彼をメンバーに抜擢した理由がよく分かる。
私の大好きなトロンボーン奏者である。
つらい困難を一緒に乗り越えてくれた人でもある。
思い起こせば94年のニューヨーク公演、出演者の査証の問題が起きた。
移民局の承認書がなかなか届かない。
このままでは公演も危ぶまれる。
しかし我々の情熱と原田氏らの音楽家魂が不可能を可能にしたのである。
どれだけ彼の協力に助けられたか分からない。
今でも目頭が熱くなる思いである。
きっとこのニューヨーク公演がきっかけとなって、絆が深まったのかもしれない。
以後立ち上げた我が社の仕事を快く受けて頂いたり、ライヴを聴きにいったり、バーベキュー大会にも参加して頂いたりのお付き合いが始まった。
ある4月の土曜日、私の誕生日を祝ってくれるバーベキューの会があった。
ラジカセとトロンボーンを持ち、鍋釜や食材までリュックに詰めて駆けつけてくれた原田氏であった。
「いけねぇ。昨日ゆでダコを2キロ買っておいたのに冷蔵庫に忘れてきちゃったよ。」
慌てて近くの店に買いに行き事なきを得たが、原田氏の得意料理「タコサラダ」を喰いはぐるところだった。
しばらくすると公園のバーベキュー場はコンサート会場と化した。
マイナスワン・テープ(カラオケテープ)をラジカセに入れるとビッグバンドのサウンドに載せてトロンボーンのソロ。
公園を行き交う人もこれは只事ではない。
拍手喝采に次ぐ喝采、中には居すわる人もいる。
振る舞い酒に振る舞い焼きそば。
最後には会費を払って帰って行った見知らぬ人やゴミの始末を手伝って帰った人も。
これが原田氏の人柄である。
「さあ、これから打ち上げだ!」と、バーベキューでも腕を奮ってくれた石井さんのお店、パスタハウス「ハツセ」へ移動。
この日は「ハツセ」もライヴハウスと化したのである。
「ねぇねぇ、原田さんが冷蔵庫に忘れてきたゆでダコ、どうしたんだろうね。」と言うのが皆さんの素朴な疑問ですよね。
なんせ2キロもあるんですから・・・。
もちろんその後、原田家では毎日「タコサラダ」が続いたそうです。
余談:バーベキュー大会から1ヶ月程経った頃だったか、日経新聞のコラムに、後に文部大臣に就任した遠山敦子女史(当時は国立西洋美術館館長)が、「公園での出来事」についてつぶさに書かれていた。
「公園で音楽やピクニック を、通りがかりの人も仲間に入れて楽しむ光景は、欧米では当たり前だが日本で見たのは初めて・・・。本職のトロンボーン奏者や気のいい仲間たちが集う野外パーティーに飛び入り参加をして楽しんでしまった。」
まさかあの時、足をとめてご参加頂いた客人に、後の大臣がいらっしゃったとは・・・。
今日はジャズ・プレイヤーの清水万紀夫さん。
カーネギー・ホールでベニー・グッドマンを演じた男、それは清水万紀夫。
国立音楽大学でクラリネットを学び、ジャズ・ミュージシャンであった父親の影響か、ジャズの道へ進んだ。普段はサキソフォーンが中心だが、フルート、クラリネットもこなすマルチ・プレイヤーである。
私の周囲には吹奏楽愛好者が少なからずいるが、ジャズ・プレイヤーだからと言って遠い存在ではない。
音楽稼業の出発点は高校の吹奏楽指導者と聞いている。
日本の吹奏楽の変遷を辿ると、35年程前からポップスの吹奏楽レパートリーが勢いを付け、ジャズ、ラテン、ロックなどのアレンジものが親しまれている。
数あるアレンジの中でも、ベニー・グッドマン楽団のヒット曲「シング・シング・シング」は岩井直溥氏の名アレンジで知られ、日本中の吹奏楽団が今も尚、コンサートで取り上げ続けている。
かつてこの曲の楽譜とレコードが出版される前のエピソードがある。
東芝EMIのスタジオで、この日は東京佼成ウインド・オーケストラによるレコーディングが行われていた。
「シング・シング・シング」の音録りが始まった。ジーン・クールパのドラムを再現するのは名ドラマーの猪俣猛。
ベニー・グッドマンのクラリネットを再現するのは、いくら器用な佼成W.O.とは言え及ばないところがあった。
レコーディングは中断。
岩井氏と猪俣氏の協議の結果、清水万紀夫氏に電話で応援を頼むことに。
録音の順番を変え、清水氏の到着を待ったのだ。
清水氏が到着するや否や、再び「シング・シング・シング」の音録りが始まった。
アドリブ・ソロを締め括るクラリネットのハイ・ノートは聞かせ場であるが、ワン・テイクで決まったと言う。
同時出版される楽譜には、清水氏のクラリネットのアドリブが採譜され印刷された。
今でも全国の吹奏楽団が演奏する、このクラリネットのソロ・パートは、清水氏のアドリブそのままなので、彼の魂の分身が今日もどこかで演奏されているに違いない。
そもそも「シング・シング・シング」は、1938年にベニー・グッドマンが、ジャズでは初めてクラシック音楽の殿堂と言われていたカーネギーのステージに立った時に、歴史的な名演をしたことであまりにも有名。
清水氏は1994年10月、ジャパン・ジャスト・ジャズ・オールスターズの一員として、同じカーネギーのステージに立った。
ステージ・センターに歩み寄り、グッドマンさながらの演奏は「シング・シング・シング」。
クライマックスであるアドリブ・ソロ。
満場の喝采を浴びたことは言うまでもない。
舞台袖にいた私の心も熱くした演奏だった。
今も続くお付き合い。
ささやかなサロン・パーティーの仕事も快く引き受けてくれる。
アイボリーの麻のジャケットとパナマ帽で現場入りする老紳士。
車で動く時は、古いタイプのミニ・クーパー。
このセンス、カッコいいんだなぁ・・・。


