March Kingの「音楽徒然草」

今日は馴染みではない方が多いかも知れないが、私にとっては忘れ難い方との出会いであった。
ジョン・ブージョワ氏。


昨年、アメリカ新大統領就任式の模様をTVで見ていた。
どうも気になるのは大統領及び主賓よりも一段下のテラスに陣取ったアメリカ海兵隊バンド。
式前から式の終りまで要所要所で演奏される数々の楽曲。
「Soul Of U.S.A」(S.O.U.S.A.)と呼ばれるスーザ、彼の行進曲が多かった。
メインで映ることはなかったが、聞こえて来るマーチの調べは、切れ味も良く勇壮な美しい演奏だった。

スーザ・スピリットが受け継がれているのは、その後の指揮者や隊員がスーザを尊敬し敬愛して来たことが最大の要因であろう。

その中の一人が、ジョン・R・ブージョワ氏。
J.P.スーザはアメリカ海兵隊バンドの第17代目の指揮者(1880~92)。
スーザが退任してから経ること100年、1992年に第25代の指揮者として就任した。
現在は退任しているが、現スーザ協会の会長を務めている。

彼の信条は、奥義の深いスーザのマーチが、もっともっと世界中で演奏され、聴衆が喚起し感動することである。
アメリカと言えども、スーザに限らないが、近年は「マーチ」が、スクールバンドや市民バンドの間で、忘れ去られている感がある。
「マーチは吹奏楽の基本である。」と言われている。
私も異論はない。
でも、あまり演奏されなくなってしまった。
決して多くの人がマーチ嫌いになった訳ではない。
その背景には、「マーチは出版しても儲からない。」と言う、出版社側の理由がある。
メジャーなものはかろうじて出版されるが、数多い作曲家のマーチ作品を隅から隅まで出版しても、「買う人はアメリカに3人、日本に2人」みたいなレヴェルだろうか・・・。
普段からマーチに触れてなければ、足も遠のいてしまうものだ。
ブージョワ氏は今の吹奏楽界に懸念を示している。


私も吹奏楽人の一人として、「マーチの普及」を継承して行きたいものである。


March Kingの「音楽徒然草」

フルート奏者の菅(かん)紀子さんだ。 


日本には世界に冠たるフルートメーカーがある。
村松フルート製造株式会社と言う。
ランパルもニコレもゴールウェイもみんなが使っている名器を生み出している。
昭和20年代に先代の村松氏と共に、日本のフルート製造の礎を築いた職人、菅淳一郎氏は彼女のお父さんである。
叔父さんもフルート吹きで、従兄弟も読売交響楽団のフルート奏者、正に「笛吹き」の家系なのだ。
彼女曰く前世では南の国で竪琴を弾いていたらしいが現世ではフルート、その音は明るく豊かに響く温かい音色で、私が最も好きなフルート奏者である。

 私は吹奏楽指導も仕事にしているが、フルートの生徒に教える時にはいつも菅さんの演奏のイメージを頭に置いて指導する。
ピッコロの音もかつて聞いたことがないほど、とても素晴らしい。

もう随分前のことだが、彼女のリサイタルのプロデュースを担当した。
クラシック出身の彼女だがジャズのトリオと共演したコンサートで、クラシックのポップスアレンジや映画音楽、スタンダードで飾った楽しいコンサートだった。
通常、余興ではなくクラシックの奏者がジャズっぽい曲を演奏するのは結構辛いものがある。
私も前日まで彼女の練習にお付き合いしたが、本番が近づくにつれ彼女も越え難いジャンルの壁を感じていた。
しかし彼女のひたむきな努力と持ち前の音楽性、そして聴衆を楽しませるプロ根性が見事に功を奏した。
ステージから降りてきた彼女と握手を交わしたが、手はびっしょり。
眼にも心の汗が浮かんでいた。
今までに数えきれないほどのコンサートを作ってきたが、満場の拍手を出演者と共に心から喜ぶことが出来るコンサートは、いつまでも印象に残っているものだ。
もちろん菅さんのこのコンサートもその一つ。
いい思い出を作ってくれた。

現在、彼女は脱都会を図り、山形県の新庄市に住んでいる。
新庄でも彼女は「時の人」、音楽文化のパイオニアとして日夜休みなく活動している。
一流プレーヤーのクラシックやジャズのコンサートをマネージメントしたり、吹奏楽の指導をしたり、音楽教室でフルートやピアノを教えたり、市内の行事に引っ張りだこの「チンドン団」の一員として巫女さんの格好で楽器を持ちパレードもしてしまう。
郷里へ戻っての音楽活動だが、いろいろと戸惑いもあるようだ。

レッスンの時に子供に付き添ってきたおばあさん、ピアノの横に正座してレッスンの終わりを待つ。
ピアノのレッスンも標準語では受け入れてくれないと言う。
「そのス・ド・レ・ミのところ…」といった具合で、テンポもどうやら東京のテンポでは駄目らしい。
体育館や宴会場でのコンサートも、出演者さえも建物の中ではスリッパを履かなくてはならず、靴を履いて演奏することを禁じられてしまうと言う。

そんな話も屈託なく笑顔で話してくれるのがいかにも菅さんのいいところで、彼女には「わが町を音楽があふれる町にしたい。」という夢がある。
音楽への情熱と行動力がやがて東北に「音楽の町」を作ることだろう。
最近、右を向いても左を向いても暗いニュースばかり。
東北に音楽文化を構築するのも、国民の生活の向上と平和な国家を作るのも、どちらも菅さんの頑張りに期待したい。

いつだったか、例によって私の突然の思いつきのグルメ旅。
思い切って足を伸ばした新庄の駅前で菅さんにサプライズ電話、
「新庄の美味しいものは何? 今、新庄の駅前にいるんだけど、美味しいお店教えて!」       
「ギャーッ」とびっくりした菅さん、彼女にとっては、たまたま何ケ月かぶりの休日で、突然の客にもめげず案内をしてくれた。
山形名物は「さくらんぼ」、でもこれは時期外れ。
もう一つ有名なのが「そば」、これは私も大の好物。
民家を改装したそば屋へ。
ただ一言、「美味い!」
元気に活躍している菅さんに久しぶりに会ったが、また彼女の美しい音を聴きたい。


March Kingの「音楽徒然草」

昨年91歳で永眠された日本で最初の女性ジャズ・ドラマーをご紹介します。

 星富美子さん、その名の通り、日本のジャズ史に今も尚、何十光年もの光の矢を放つスターである。
ジャズドラマーのおばあちゃん。
99年に惜しまれて他界したジャズ評論家のいソノてルヲ氏が私に紹介してくれた。
年に一度、楽友会のパーティーでドラミングを披露する矍鑠とした星さんが、目黒にお住まいであることを聞いた。
そして同時に私のこともいソノ氏から星さんに伝わったようである。
それから間もなく、我が社が毎月開催しているシネサロンへの参加申し込みの電話があった。
それは「お話を聞いて・・・」と言うお年寄りの声で「星」と名乗っていた。
いよいよシネサロンの日、背を丸めてはいるがおしゃれで明るいおばあちゃんが入ってきた。
シネサロン常連のいソノ氏も我々も大歓迎。
これを機会にシネサロンは毎回来て頂くようになったのである。

にこにこ笑顔が印象的な彼女は、かつて40年前に亡くなられたご主人がバンドリーダーを務める「レインボーノーツ」というバンドのドラマーだった。
日本全国、そして進駐軍も回った。
おそらく日本で最初の女性ドラマーではないだろうか。
当時、女性がジャズドラマーになることは想像を越えるご苦労があったに違いない。
もちろん独学で身につけたドラミングである。
しかし、彼女が大活躍をしていたことは想像に余りある。
ご夫婦で日本中を回っていたが、ご主人と彼女が1つだけ果たせない夢があった。

願いをかなえたのは2000年12月。
「おばあちゃんドラマー・はじめての海外旅行」という企画、日本テレビの番組で翌年の3月にオンエアされている。
番組を見て涙の感動をした方々もいらっしゃるだろう。
私もその一人。
お孫さんと共に、亡きご主人の写真を持って、ジャズ発祥のニューオリンズへ訪れたのだ。


この番組の企画が持ち上がった頃、目黒で彼女と待ち合わせをした。
彼女は熱心にガイドブックを片手に、ニューオリンズのことを私に質問したのだ。
私がお薦めしたのは、デキシーランドジャズを聞かせてくれるノスタルジックなプリザベーション・ホールと見かけはあまり良くないがクレオールのソウルフード、心も体も温まるガンボ・スープであった。
帰国後、すぐにお電話いただいたが、なんとプリザベーション・ホールで演奏をしてきたとのご報告。
これは私も嬉しかった。

うっとりとしてしまうほど、彼女のスティックさばきにはハートがある。
後日行われたバーベキュー・パーティでは、マイナスワンテープ(カラオケテープ)をバックにジャズ・トロンボーン奏者の原田靖さんと共演。
公園のベンチではあったが、実に軽やかなスティック・ワークを披露。
たまたま公園を訪れた人々にも取り囲まれ、目を輝かせながら生き生きした星さんの姿が印象的であった。

愛する家族と、愛する友人と、音楽の楽しみを分かち合うことを往年の女性ジャズドラマーは教えてくれた。
彼女が刻むリズムは、しっかりと我々人生の後輩の胸に響いた。

星富美子さん、正に人間国宝である。


TVの企画では、NYにしようかニューオリンズにしようかと迷った挙句のニューオリンズだったが、それは大成功だったと思う。
TV番組なので、段取りは見え見えだが、星さんの人間性が滲み出た上、感動のドラミング・シーンは最高だった。


このオンエアVは宝物になるに違いない。