それを≪追及

≫ するために 。。。粛宗の周りの女性達


を深~~く探ってみようと思います。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
それでは


粛宗の周りの女性達
≪粛宗の夫人たち
≫(今回も、 「張玉貞、愛に生きる」の画像をお借りして。。。)
年月日はすべて「陰暦」です
(粛宗と4人の王后=中殿の座に就いた女性達)
廃妃(張禧嬪) 粛宗王
(廃・復)仁顕王后閔氏
仁敬王后金氏後に もう一人
仁元王后金氏。。。。。。。。。。。。。
今回も このアイン粛宗
の〝女性遍歴″~笑 から 

朝鮮王朝第19代王粛宗1661年(陰)8月15日生~1720年6月8日没 (享年60歳)
在位 (1674年8月~1720年6月)
① 仁敬王后金氏(インギョンワンフキム氏)
1661年9月3日生~1680年10月26日没(享年20歳)
會賢方の私邸で出生、
慶徳宮(現:慶熙宮)會詳殿にて天然痘により死去。
本貫:光山(クァンサン)
父:金萬基(キム・マンギ) 1633~1687
母:清川韓氏 1634~?
兄:金鎮亀(キム・ジング) 1651~1704
1670年10歳で世子嬪として揀擇(カンテク)され入宮、翌年3月冊封。
1674年8月世子の父(顕宗)が崩御、世子が王位に就くと「王后」に。
子女 : 公主(1677年4月27日~1678年3月13日没)
公主(1679年10月23日~1679年没)
(公主二人・・・早卒 / 承政院日記より)1680年10月、天然痘を発症し8日後死亡。

ドラマ「張玉貞・・・」では、粛宗の寵愛を受けられない薄幸の妃という姿で描かれていましたが、政略結婚ではあったものの、王女
二人を出産しました。悲しくも二人とも早死。
粛宗とは 同い年
でしたよ~
② 仁顕王后閔氏(イニョンワンフミン氏)
1667年4月23日生~1701年8月14日没(享年35歳)
盤松洞の私邸にて出生、
昌慶宮の景春殿にて死去。
本貫:驪興(ヨフン)
父:閔維重(ミン・ユジュ) 1630~1687
生母:恩津宋氏 1637~1672
実姉 1656~1728
実兄:閔鎮宇(ミン・ジヌ) 1659~1720
実兄:

閔鎮遠(ミン・ジヌォン) 1664-1736 実妹 1672~1714
継母:豊壌趙氏 1659~1741
異腹弟:閔鎮永(ミン・ジニョン)
異腹妹
異腹妹
粛宗の初妃である仁敬王后死の翌年(1681年)、粛宗の母である明聖王后の
母方の親戚であり朝鮮後期の文臣・哲学者・政治家等であった宋時烈(ソン・
シニョル=老論派)の推挙により揀擇→継妃として冊封される。

ドラマの粛宗/仁顕の姿とは ちょっと違う

わずか15歳で、6歳上の粛宗の「継妃」に。
と言うことは、粛宗より二つ上の嬉嬪とは8歳も年下でした~


≪仁顕王后の生涯≫については 。。。 後日
≪粛宗の治世を詳しく

≫ でまとめます 



③ 禧嬪張氏(一時は王后=正室の座に就いた張玉貞~本名)
1659年9月19日生~1701年10月8-10日の間に死亡(享年43歳)
ソウル市恩平区仏光一洞331番地一帯にて出生とみられる。
粛宗21年(1701年)10月8日に賜死の命が下され、葬儀の命が
実録の10日に記載されているところを見ると、8-10日の間に死去
したと思われる。はっきりした記録は無い。
本貫:仁同(インドン)
父:訳官 張炯(チャン・ヒョン) 1623.2.25~1669.1.12
母:坡平尹氏 1626~1698


ドラマ「張玉貞・・・」のイメージ壊してしまいますが オクジョンより 母の方が
先に
亡くなっています(更に・・・ここからは、
私Marcall的
も入りますが)ドラマの中で母尹氏が南人派の趙師鍚(チョ・サソク)と私通
更にオクジョンの父では?!・・・と出てきましたが 。。。
ここも 探ってみたくなりました (苦笑)
≪粛宗実録1687年(粛宗13)6月16日3番目の記事≫に確かに記載されては・い・ま・す 。。。

でも
これはどうも≪後から加えられた≫という説が正しいように思えます。
承政院日記(王朝の日記を綴ったモノ)には一切記録されて無く
粛宗実録が編纂されたのは≪後の英祖の代≫であり、しかも
編纂を任せられた者が『閔鎮遠(ミン・ジノォン)』

です。そうです~~~
↑の仁顕王后の兄弟の中を

閔鎮遠って
あの仁顕王后の「実の下兄」
なんです。英祖もこの閔鎮遠も互いに「禧嬪」に

とした感情があったのは否めませんよね~~
そういう中で編纂された「実録」。。。憎い気持ちがここに加えられても不思議はない

気もしませんか~~~


禧嬪張氏の母尹氏は訳官張炯の「後妻」であり、趙師錫と私通
更に「オクジョン」の父?と言う説は ≪事実無根≫と思われます。
異腹兄(前妻:済州高氏の息子):張希拭 1640~?
実姉
実兄:張希載(チャン・ヒジェ) ?~1701.10.29
入宮時期ははっきりしないが、11歳と幼くして父を亡くした玉貞が生計の為
宮女になったという説や、(ドラマと酷似しているが)父の生きている頃、同じく
宮女の娘を持つ(父の従兄:張硯チャン・ヒョン)の勧めで末娘を宮女にしたと
も言われる。 粛宗実録の中にも幼い頃入宮したとの記載があるので、早い
時期に宮女になり、荘烈王后趙氏(慈懿大妃)に仕えたというのは間違い
なさそうです。


粛宗と玉貞がいつどのように出会い、寵愛を受けるようになったかの一説として ≪仁敬王后 存命中≫説を
2014.4.10のブログ「儚く散った仁敬王后の生涯」の中で書きましたが
実録には≪仁敬王后が亡くなった後≫との記録も存在するようです。
。。。ドラマ「チャンヒビン」など殆どの〝張禧嬪モノ″では
圧倒的に≪妖婦
禧嬪≫として≪王后存命中に≫と描かれていましたが。。。
ドラマ「張玉貞、愛に生きる」の中では、互いに「想い
」はあるものの、仁敬王后存命中では無かった。。。と


この ≪禧嬪張氏の生涯≫も 。。。 後日
≪粛宗の治世を詳しく

≫でまとめます 


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
このように 。。。 粛宗の≪女性遍歴

≫ と考えると 玉貞は仁顕王后より〝先に
″ 粛宗と
縁を結んだことになりますね女性遍歴の順としたら ( 玉貞② → 仁顕③) ~笑
それでは 。。。 次 ④番目は あの≪淑嬪チェ氏≫でしょうか~~

じ・つ・は ~~~
(少し頭を冷やして
)。。。 次は この≪粛宗の女性遍歴≫の続きを

その後に ≪粛宗の治世を詳しく≫を
仁顕/禧嬪張氏/そしてチェ氏の事も含めて詳しく

色々たくさん「エ~~~ッ」となる事が出てきました


今回のこのテーマ 。。。 もうしばらくお付き合いくださいませ

(熱
視聴中ドラマ情報や・・・忘れないうちに〝旅行記”等も 

併せて アップして行こうと思いま~~~す
)