木曜日のこと。降り出した雪の中、車を走らせていた時。
ふいにラジオをつけると、好きな曲が流れ出した。一曲が終わると、またすぐにもう一曲がかかる。
やはり、同じ歌手の、好きな曲だった。
気分は上がったものの、さすがに3曲続いたところで、心配になった。
どうしたことだろう?メンバーに何かあったのか!?
トーキング・ヘッズ。
彼らの特集だった。かつて彼らが制作した映画が40年ぶりに再発表されるらしい。
僕がトーキング・ヘッズの音楽に触れたのは、彼らのキャリアでは後期にあたる。
80年代には沢山のアーチストが登場した。
その時10代だった僕にとって、新鮮な驚きであり、世界の広さを教えてくれ、楽曲の良さ、詞の世界観、パフォーマンスが素晴らしく、何よりも今も変わらずフェイバリットだ。
彼らの魅力を語るのは、難しい。
でも、そうした機会があるとしたら、こんな嬉しいことはない。
時間軸として、映画が製作されたあたり初が語られることが多いかも知れない。
けれど、そこだけみても、トーキング・ヘッズを語ったことにはならない。
敢えて言うなら、彼らはスポンジだ。
アフリカンミュージックにしろ、アメリカのルーツミュージックにしても、一気に吸い取る。
吸い取ったかと思うと、一気に絞り出す。
すると、一級品のダンスミュージックやアメリカの音楽が出来上がる。
しかも、どれも『トーキング・ヘッズ』サウンドなのだ。
ここでは、こんな歌詞が歌われる。
僕たちは どこに向かっているのかは分かっていても
自分たちがどこにいるかはわからない
僕たちは 自分たちが何を知っているのか分かっていても
何を見てきたのかは言えない
僕らは行き先のない道の上にいる
君もこっちにおいでよ
行き先のない道を進むのさ
僕らは とにかく進むのさ