事件は、オンラインで打ち合わせをしている最中に起きた。
ブオンッと風を切り裂くような音を立てて、視界の隅をなにかが横切った。
打ち合わせも終盤にさしかかり、雑談に移行していたので、ぼくはふっと顔を上げる。
布団を干すとき、全開にしていた窓が開いたままだった。
ブオンッ。玄関でまた風を切り裂く音がする。
カナブンだろうか。バッタだろうか。そんなのが飛び込んでくるくらい、暖かくなったんだなあ。
のんきにそんなことを思いながら、ぼくは会議のメンバーに「ごめん、ちょっと何か来たので、見てくるね」と言い、接続を切った。
「ちょっと何か来た」というのは、盛大なぼくのブランディングである。最近、ピクサー映画「バグズ・ライフ」を観たので、小さきものの生命を尊び、慈しむ人に憧れていた。
カナブンだかバッタだかに「ふふっ、かわいい子。ここが落ち着くんだね。好きなだけ良いよ」と、声をかけたい気分になっていた。ついでに「春のお客さんが来てくれました」みたいな、脳みそゆるふわの一言を添えて、ブログにあげようと思っていた。
玄関に、ブオンッの主がいた。
えっ。
想像していた100倍くらいうるさくて、速くて、でかかった。
音と速さにビビりすぎて、ゆるふわな写真を撮るどころではなかった。
いや待って。ハチやん。スズメバチやん。
オレンジ色と黒色のシマシマ模様を見た瞬間、「バグズ・ライフ」がかき消え「インディージョーンズ」が始まった。
幼稚園の頃、山に遠足に行った際、スズメバチの大群に追いかけられ、死ぬ思いをした。
ゴキちゃんやゲジゲジなど、みんなが怖がるような生き物は全然平気なのだが、そのトラウマでハチだけはいまだに恐怖心を覚える。
死ぬ。これは死ぬ。
阿鼻叫喚しながら、リビングで遊んでいたOくんとダイに部屋から出ないように告げる。
ぼくはとっさに、キャンプなどアウトドアの師匠である先輩がいるグループに、文字を打ち込んだ。
先輩はいたって冷静であった。やはり頼りになる。
Hさんが秒で送ってくれたのは、ハチが入り込んできた時の対処法だった。優秀すぎる。「人情派サイコパス」と呼ばれてたのを聞いて、笑っちゃってごめんなさい。
ハチは明るい方へと逃げていく習性があるので、窓を開けておけば逃げていくらしい。
玄関あたりで暴れまわっているスズメバチに怯え、気配を殺しながら、窓という窓を全開にした。
これにて一件落着かと思ったが、この部屋、異常に日当たりが良いのだ。三面採光が仇となり、外も中も明るさが変わらない。
よって、ハチは出ていかない。ちくしょう。
しばらくすると、ブオンッブオンッが聞こえなくなった。
見るのも嫌だが、見えないのはもっと嫌だ。キッチンの方へおそるおそる近づくと、スズメバチが床で休んでいた。
人間、窮地に追い込まれると、動体視力や反射神経が跳ね上がるものである。あと、いらぬ勇気も。
シンクで乾かしていた、炊飯器の釜でカパッと捕まえてしまった。
Hさんから「魔封波じゃん」と、ドラゴンボールの技名にたとえて褒められた。やればできた。魔封波。
しかし、ここからが大変である。
なにせ、釜の中にいるのは、スズメバチ。
名探偵コナン 第120話「ハニーカクテル殺人事件」、第716話「能面屋敷に鬼が踊る」でもスズメバチは人を殺すトリックとして用いられた。タイトルからして怖すぎる。
生け捕りにしたシリアルキラーを、どうすれば良いかまったくわからず、パニックになったぼくは友人達にLINEで助けを求めた。
「下敷きなどを差し込み、ベランダに出て、下敷きを外す」
これが一番多いリプライだった。申し訳ないが、却下させてもらった。だって怖い。外した瞬間、
「オラァ!お前!コラァ!」とハチがこっちに飛んできたらどうするんだ。
「うちでは掃除機で吸い込んで、袋ごと捨てちゃいます」
掃除機で吸い込む。これはなんか、安全そうだ。
早速やってみることにした。
しかし、うちの掃除機と言えば、調子に乗って買ったルンバのみ。
これで……いけるの……だろうか……。

釜を開けた瞬間、ルンバがハチを認識して吸い込んでくれなきゃ終わりだ。ぼくの生命はルンバのAIに賭けられている。
いや、賭けられるわけないだろ。崖っぷちのギャンブラーかよ。
もう一度LINEを見たら「お釜を大きなゴミ袋で包んで外せば、そのまま捨てられる」と書かれていた。
はっ!そうだ!
ぼくはゴミ袋で釜とルンバを包み、ルンバを起動させた。
突如として現れたコロシアムで、ハチとルンバの一騎打ちである。観客はただ一人のぼくだ。
死闘の末、ルンバはハチを吸い込んだ。ぼくは歓喜の声を上げた。
しかし。
コロシアム(ビニール袋)を外してみると。
ルンバのダストボックスから、カチャッ、カチャッ、ブオンッと音が聞こえるのである。
スズメバチが、釜からルンバに移動しただけやんけ。
孔明の罠である。
おのれ孔明。
これを読んでいる賢い人はもうお気づきだろうが、「袋の中で釜を開ければ良かった」のであり、誰も「袋の中でルンバにハチを吸い込ませろ」なんて言っていない。
ぼくは完全に、恐怖のあまり正常な判断ができなくなっていた。袋とか掃除機とか以前に、鎮静剤が必要だった。
もう一度、LINEを見た。(LINEを見るのをやめろ)
「ハチは寒さに弱いので、ルンバこと冷凍庫に入れてみるのはどうでしょうか」
い……いやだ!買い換えたばかりのルンバだぞ!冷凍庫なんかに入れたら壊れるかもしれないじゃないか!っていうかそんなスペース無いわ!
はっ。
保冷剤で冷やせばいいのだ。
冷凍庫中の保冷剤を引っ張り出してきた。
保冷剤が溶けて水滴が出てくると、ルンバが壊れそうになるので、ぼくは1時間ごとに保冷剤を粛々と取り替えた。
もはや、病床のルンバを看病している親の気分である。
「ごめん、ごめんなルンバ、もうちょっとの辛抱だからな。耐えてね」
苦しみながら、自らの体内で敵をじわじわと追い詰めていくルンバの捨て身の死闘は、いつか映画化されると思う。インディージョーンズの制作陣に。
5時間に及ぶ看病の末、ぼくはルンバに耳を押し当てた。ルンバのダストボックスには袋がなく、外した瞬間にスズメバチが飛び出てくる恐れがあるからだ。
シーーン……。
静寂が広がっていた。
ルンバは勝ったんだ。
泣きそうになりながら、ダストボックスを取り外そうとした瞬間。
ブオンッ。
生きとる!!!!!!!!!!
なんちゅう生命力や!!!!!
もうそろそろ、気力も体力も尽き果ててきた。
とぼとぼとドラッグストアに行ってみたけど。
ハエと蚊の殺虫剤しかなかった。噴射力が心もとない。
っていうか殺虫剤をルンバに吹きかけると、ルンバは壊れるらしい。つら。
はっ。
そうだ。ハチが飛び出してこれないように、ルンバにホコリをたくさん吸わせて、塊にしてから出したらいいんだ。
でも、そうそうホコリなんてあるもんじゃないし……。
あった。
ドラム式洗濯機の乾燥フィルターに、ホコリがついていた。
渡りに船ならぬ、ルンバにホコリ。
たぶん、いまホコリを探し求めて、ホコリを見つけて狂喜しているのは、日本中でもぼくだけだろうなと思った。
いまぼくは、洗濯機を回すたびにホコリをルンバに食べさせ、保冷剤をこまめに取り替えるという「生活」を送っている。ここには確かに、ていねいな暮らしがある。
スズメバチだって、なにもぼくを刺したくて入ったわけじゃないのに、ぼくがビビりでアホなばかりに死を選ばせてしまって、本当に申し訳なく思っている。
せめて今年のお盆は、スズメバチを弔い、スズメバチを憂い、この春の死闘に思いを馳せたいと思う。
ここまで、ぼくのどうでもいい恐怖体験にお付き合いいただき、ありがとうございました。
皆さんも、危険な侵入者にはご注意を。
それでは。