展覧会に行って来ました。


全く名前を知りませんでした。
あくなき越境者とは?
旅を欠かせなかった作家でした。


新潟生まれ、詩人滝口修造に見いだされ
詩画集『妖精の距離』(1937年)で、若くして注目を集め、雑誌『フォトタイムス』で前衛写真を発表し戦前活躍、戦時中は陸軍報道部写真班に所属、フィリピンで雑誌の表紙や挿画、写真を手がけ、現地で結婚。敗戦とともに拘留され、そこで大きなインパクトを受けました。

戦後に帰国し、再婚しキュビスムやシュルレアリスムに影響を受けた人間像を多く描いた。
そして、イタリアに渡り定住し、創作活動を行い、当時のイタリアの若手アーティストから慕われていたようです。
そして、故郷でイタリアの美術展の開催に尽力した。その時の作品が今でも新潟に残っており、彼以外の作品も幕間として取り上げられていました。

絵画的には植物モチーフから、人、そして抽象、エンコースティックと言う技法、故郷新潟での現代イタリア絵画展で鮮やかな色彩は高揚した気持ちの表れか。イタリア定住し創作、惜しむことに日本での評価の高まり期に亡くなられてしまった。
初めて作品見ましたが馴染みやすいのは、「日本的」とイタリアで言われていた証かも。楽しめました。

構成
これ、ほんと一人で描いたの?と思えてきます。

第1章 出発─〈妖精の距離〉と前衛写真1932-1941
画:阿部芳文(展也)
詩:瀧口修造 詩画集『妖精の距離』より
《風の受胎》
1937年 コロタイプ印刷
 新潟市美術館(阿部展也旧蔵)
植物?人間?

『フォトタイムス』
15巻5号
1938年 書籍 
和歌山県立近代美術館
画家より写真の腕前を買われた起用だったそうな。

第2章 フィリピン従軍と戦後の再出発 1941-1947

Night 
1947年 油彩、カンバス
 新潟市美術館
やはり植物ですね。

Saint Divine Conception 
1945年 鉛筆、紙 
新潟市美術館
なんか村上隆さんの作品?と思えてきます。

雑誌『みちしるべ』 1942-43年 書籍 
 上智大学中央図書館
フィリピンのローマカトリックの宣伝、キリスト教の雑誌だとか。

左 飢え 
1949年 油彩、カンバス
 神奈川県立近代美術館
これは戦後に描いたもので、章は次に展示あり。しかしこの戦時中の過酷様子が伝わる作品。


第3章 人間像の変容─下落合のアトリエにて1948-1957

太郎 1949年 油彩、カンバス
 新潟県立近代美術館・万代島美術館
再婚し生まれた息子、最初の写真の作品もやはり太郎なのです。この頃は子供の出生にまつわる作品が多くなつてたようです。

蛸猿 
1949年 油彩、カンバス
 新潟市美術館
頭にタコが乗ってるんですね。



第4章 技法の探求かḀ「かたち」回帰へ─エンコースティックを中心に1957
蜜蝋に顔料を混ぜて加熱して画面に定着させる手間のかかる作品、どれも抽象画です。
独特なマチエールが特徴ですが、ちょっと気味悪いものもありました。
これはこの頃旅をした東欧旧ユーゴスラビアで見たものから着想を得たような、もちろんこれは古い時代の技法でそれにもインスパイアされたのかもしれません。

マスプロダクション 
1962年 コルク、油彩、板 
広島市現代美術館


後にポップな感じになってくるのは、久しぶりに日本に帰国にあたり、高揚した気分からだとも言えそう。

R-12 
1966年 エンコースティック、板 
千葉市美術館
作品 
1968年 アクリル、カンバス 
浜松市美術館


作品 
1966年 樹脂 
新潟市美術館
この2作品の共通点は?丸い口かしら?
色も似てるかも。

幕間 ─Interlude─
なんと、あのフオンタナと交流があり、作品が出ておりました。
1965年「現代イタリア絵画展」BSN新潟放送の主催の展覧会で、展示した作品がドイツのデュッセルドルフのグループ0の作家の作品などと並び貴重だなあと思いました。

第5章 未完の「越境」1968-1971
ここは、手間のかかるエンコースティックからアクリルペインテングに変化しての創作作品が並びます。シスミックペインテング、ハードエツジと言われてます。
ずいぶん自由な画風の作品になります。
残念ながら58歳で没、このまま制作されていたら、画材との格闘から解放されて、もっと作品が増え、普及したのかも、惜しまれます。
最後は見てて疲れるどこから、楽しくなり何かクリエイティブになれそうでした。
これら方眼紙を使い型紙使い、それも日本的と言われた理由なのかも。

2018.9.15 [土] - 11.4 [日] 
埼玉県立近代美術館