会期末になりましたが、行って参りました。




三人の若い美術学生の木版画と詩をまとめた雑誌で、約一年で終刊となったのですが、後世に足跡を残したそうです。

何故に有名になったのか、
大正初期に文芸誌「白樺」などで西洋美術が紹介されていたのは聞かれた事があるかも。
ムンクやカンデンスキー、ゴッホなどに刺激を、竹下夢二などにも影響受けて、主流で無い木版画にとり組んだ
田中恭吉



藤森静雄



恩地孝四郎



の東京藝大の学生が熱中して彼らの表現を模索し、竹久夢二の懇意の出版社の落陽堂からの発刊となったことがあるようです。
竹久夢二人気は当時から凄かったのですね。

詩と絵と言えば、平塚市美術館の「画家の詩、詩人の絵」、そこでも3人の作品が展示されてました。

東京駅の開業の1914年と同じ年に生まれた。という事でこの会場にて展覧会と言うこと。




ポスターは大正ロマンぽく、何より悲しく淋しいイメージで、気持ちを落ち着かせて浸りたいタイミングで行こうとしてたら、会期末になってしまい。

やはり、ここでも結核、3人のうちのひとりの田中恭吉が23才で夭折します。
病でありながら、命を削りながら制作。和歌山から上京、病がひどくなり和歌山へ帰郷しながら、制作続けた、それが痛いように伝わります。
そんな感情や身体の調子さえ、作品に投影してしまう、学生ならでは出来たことなのかもしれない

そこがこの雑誌の短命の要因になったのかもしれない。
しかしその存在は日本近代版画史の草分けと評された

まず、東京ステーションギャラリーの赤レンガに非常に合ってること
鴨居玲より合ってるかも。

最初ゴッホの絵を連想した、彼と同じく内面から感情を込めて制作したのだと、やはり影響受けてるようで。

白樺などではカラーはなくモノクロなので、チャレンジャブルながら木版画は色彩も人間らしさが出しえた

青が使われてるが、色彩的にはカンデンスキーの青の時代なのか

人がねじれぎみなのは、ムンク、うなだれる様子も顔も同様に

だんだん抽象化してゆくのは、編集した恩地が日本最初に抽象表現に到達したことからだろうと。
何か分からぬものも、絵と言うか気持ちを表したデザインだろうなとか

公刊する前の限定私家版、そこから何枚かが公刊版にも使われているので、同じものもありました。

更には生前に詩人の萩原朔太郎の初の詩集「月に吠える」の田中恭吉の原画と恩地の木版画、これらは言葉を越える存在感でした。相当な内面の世界へ入り込んでるので、私はとても言葉に出来ません。

藤森と恩地の自画像が油彩でありました。こんな二人だっのかと。
その後は教師にまた美術家として生きられたそうです。

ちなみに雑誌は売れなかったそうですが、田中恭吉遺作展は行われたようですが、それで幕を閉じた、田中が生きてれば続いたのか、多分。

作品を少しつけておきます。





大半が葉書程度の版画作品なので点数が多く、約300点。


東京ステーションギャラリー
~11月3日