写真撮影は特別に許可頂いております。。
また、頂いたプレスリリースより転用。
パスキン
Pascin
実は
ピンカス
Pincas
父親に本名の使用を禁じられ、また時代柄ユダヤ人であることを隠すため
これ、アナグラムと言うのですね
ブルガリアの富豪宅の生まれ 国籍不明
中等教育でウィーンへ。
自宅に戻るが、ともかくイケメン、周りに親戚の叔母や女中に囲まれ暮らしてたことや、また若くして娼館の女将と深い仲になるとかで、女性問題を起こした
その頃、多感な時代に女性の裸を沢山見て、後に多数の女性を描く素を作ったのではと言われている。
自宅を飛び出てミュンヘンで好きな絵画の美術教育を受ける
才能があり、下積みをせずにミュンヘンの人気の風刺雑誌「ジンプリツィシズム」の出版人アルベルト・ランゲンに見いだされ、雑誌の挿絵が画家の専属契約を結ぶ
あのパウル・クレーが採用されなかった位のレベル。
素描の描き方、切り取り方には卓越した才能が見られた。
これは十代の話
最初の写真がその頃の作品
左端の《女の肖像》が後の円熟期を予感すると思う
二十歳のクリスマスに、パリへ絵画をの画家になるため。
既にミュンヘン時代の友人が多数居て、有名なカフェ「ドーム」に出入りし、盛大に歓迎パーティーが開かれたとか。
先ずは、フォーヴィズム、つまりマティスの私立美術学校に入る。ドイツの表現主義とともに学び、影響を受ける
その頃の作品たちが写真。
確かに影響感じますね、手前の作品《エルミーヌ・ダヴィットの肖像》とかには。ちなみに油彩は独学で、発表されたのは数年後だった。エルミーヌは画家でありパスキン夫人
1914年に第一次大戦が始まり、ヨーロッパが戦火に。ロンドンを経由して、アメリカニューヨークへ
ユダヤ人であることもその背景にあったが、これまた友人がいて、未知の国ながら、寂しさ無くして暮らせていたようです。もちろん恋人のエルミーヌを伴って。
寒いのが苦手な彼は、アメリカ南部のニューオリンズやキューバ等に滞在して、暖かい気候のもと、暖かい色彩を使い絵画を制作した。ミュンヘンも寒いけどね、ニューヨークは更に極寒だったようで。
でもある意味分かりやすい方ですな。
更に、アメリカはヨーロッパ画壇から遠く影響度が弱くて、作風が自由になったようです。それが円熟時代に生きるようです。
アメリカで初めて国籍を取ったので、彼はアメリカが気に入られたようです。
三枚目の写真の作品は《キューバでの集い》彼の作品からしたらこれ暖かみがある、また、少しキュビズムっぼい。そんな傾向もあったようです。
そして、その後再びバリへ戻るのですが・・・
それは続きにて。
これで展示は約3分の1、残りが全て円熟期のもの。


