外面がいいとは思わないけれど、一見ちゃんとしてそうには見せてる。仕事はそこそこ出来るほうだと自負しているし、人間関係もそんなに苦労したことがない。そしてこれまで借金をしたり、深い恨みを買ったり、路頭に迷ったりしたこともない。

だがそんな自分が異様につまらなく感じることもよくある。

寝食忘れるほど誰かを好きになったり、全財産をつぎ込むほど何かに肩入れしたり、もちろん刑務所に入るような罪を犯したりしたこともない。

やっぱり、わたしの人生はつまらないのだろうか。

無自覚とは言え、外面を整えてきたせいで、なんとも味気ない人生を歩んでいるのではなかろうか。

きっと周りの人は言う。

そんなことないよ。
わたしよりよっぽど人生楽しそう。
好きなことしてるの羨ましい。

夢や目標的なものが少なからずあって、そのために世や親たちが言う普通の幸せ(結婚して子供産んでのやつ)は今のところ脇に置いていて、自分のためだけにお金も時間も使える状況を担保している。こんなご時世云々ではなくて、シンプルに「大丈夫かな」と思うことはよくある。

自分より明らかに若くてキレイな女性がブランド服で着飾ってベビーカーを押している光景を見ると、生きている世界線が違うのだろうなと考えたりもする。そうなりたいか?は無駄な質問。そうなりたいなどと思わない。強がりではなくて、心から。満足してるわけではないけれど、誰かを羨むことも少なくなった。

受け入れと諦めのはざまを行ったり来たり。

自分の人生や現状をある程度「受け入れて」、今の自分に出来ることを精いっぱいやる。というと聞こえはいいが、ある意味「諦めた」と捉えることもできる。例えば若さ。もちろん20代の頃より若くないから老いは受け入れる。でもオシャレやスタイルを気遣うことは別のベクトルであって、それは諦める必要はない。まだ出来ることはたくさんある。でも出来なくなったことにしがみ付いて、受け入れないとはまた違う。バランスが難しい。

誰かと接するとき「この人はこういう人だから」と受け入れる度量を持てるようになった。というと聞こえはいいが「どうせ変わらないから」と諦めているのと紙一重。若者と接するとき、しつこく注意しなくなったのは「受け入れ」なのか「諦め」なのか。

世の中にはいろんな人がいて、自分の当たり前や普通は実は無いに等しくて。それはジェンダーもそう、障害もそう、ライフスタイルもそう、すべてにおいてそう。法律だって変わるし、今日の正義は明日の正義とは限らない。

そう思って生きられるようになったのはいつからだろう。

やっぱり年を重ねていく中で、色んな人と接して、様々な本を読んだりテレビを見たりして、学んでいった部分がほとんど。だからこそ、諦めと受け入れのはざまで震えあがっている。諦めというとなんか嫌な響きになるけれど、受け入れとニアリーイコールであるのもまた事実。

だけど

つまらない人生を少しだけつまる人生にするには、諦めや受け入れをぶち壊す勇気が必要なのかもしれない。表立ってぶち壊さずとも、自分の中で静かにぶち壊す。ぶち殺す。諦めサイドに立ちがちな自分を。ぶち溶かす。自分の中で固まりかけている自分を。

これって、パンク?ロック?荒ぶればいいのだろうか。

荒ぶるぜ2002。