今日は小学校から知っている幼馴染の友人と「いつ振りやねん」ってツッコミたくなるくらい久しぶりに会った。慎重に思い出してみると、2年前にやった舞台を観に来てくれたから2年ぶり。でも終演後、一瞬しか話せなかった。あれを会ったと言えるかどうかは怪しい。

友人はコロナ始まりかけの2年前にご主人の海外赴任でアメリカに行った。(そうだ。海外に行く前に、と舞台を観に来てくれたんだった)本来の予定日よりもアメリカに行くのは遅くなり、本来の帰国日よりもだいぶ早く日本に戻ってきた。その戻ってきて、ようやく東京での隔離が終わって、ご主人の地元に戻る前のタイミングに会えたと言うわけだ。

生まれたての時と、2歳くらいの時に会ったことのある友人の娘は5歳になっていた。想定よりもシャイガールで全然懐いてくれなかった。ずっとパパとYouTubeを見ていた。というよりは、ご主人と娘ちゃんそっちのけで、わたしたちがマシンガントークをしていたから仕方ないと言えばそうなのだが。

わたしは東京の暮らしを、友人はアメリカの暮らしを報告し合った。

脚本の話をすると友人は「旦那と同じやな」と言った。ご主人は開発者で、みんなの要望を聞きながらシステムを作っていく仕事をしているらしい。わたしの話を聞いて、似ていると思ったと言う。

確かに脚本は作品の「設計図」だと言われている。原作があったり、プロデューサーやスポンサーの意向があったり、時には出演者の要望だってあったりする。その全てを出来る限り叶えられるよう、意見をぶつけ合い、何度も書き直し、一番面白いものになるであろう脚本という設計図を完成させるのだ。

「そういう苦労があるから、お金をもらえて仕事になるんだもんね」と友人は真ん中をついてきた。

そう。書きたいことを書くだけなら、このnoteでもアメブロでもTwitterでも、自分のノートでもいいから書けばいい。でもお仕事として書かせてもらう以上は、好きなことだけを書くわけにはいかない。

好きなことを書ける脚本家さんはいるだろう。だけど本当に少ない。本当に好きなことを忠実にやりたい作家や映画監督さんは自分でお金を集めて作品を作る。それでも、全部が全部望み通りってことにはならないだろう。

わたしはどちらかと言うと、どなたかの理想やイメージをカタチにする方が得意かもしれない。誰かのこうしたいああしたいを聞いて、無理難題をアイデアでもってクリアしながら作っていくのが好きだ。ゼロからつくるにしても、設定や条件をつくったほうが燃える。

友人と話していて、「設計図をつくる」という脚本本来の意味を再認識できた。それがエンジニアと同じだと聞いて、なるほどと膝を打った。

そして友人はこうも言った。

「期待しすぎないのも大切」だと。友人はとても明るい性格で、どこにでもすぐ溶け込めるし、何でも楽しめる性格だ。家族とも仲が良いし、友人の多く、ママ友にも恵まれている。だからアメリカでもエンジョイすると思っていたし、それを期待して渡米しているものだと思っていた。だが、海外へ行くとき友人はこう思っていた。「今みたいな恵まれた環境を、アメリカでも得られるはずがない」と。つまり、何も期待せずに行ったと言うわけだ。

その結果、素敵なご近所さんや日本人の知り合いにも出会えた。コロナ禍で他人と、ましてや異国の人たちとコミュニケーションを取るのも難しい状況で、小さな出会いやキッカケを喜び、楽しむことができたのは、期待していなかったからだと言う。期待が大きいと「こんなはずじゃなかった」「もっといい出会いがあるはず」と失望したり、満足できなかったりする。でも期待が小さいと、「こんなことがあるなんて!」と些細なハッピーを喜べる。

とても大切なことだと思った。確かに大志や野望を抱くのは必要だし、期待だってしたくなる。けれども、それに潰されてしまったら素も子もない。

どんな仕事も、完成イメージを持って設計図をつくり、クリエイティブな視点を持って、楽しみながら取り組むことこそが一番大切。そして人にも自分にも期待しすぎないこと。それを改めて気付かせてくれた友人に感謝。

まぁ、自分の人生の設計図は未だにつくれていない気がするけど、少しは自分に期待しててもいいかな。。。