8月16日 月曜日 今日の道しるべ


● 清き耳―――。 これは子どもの耳である


ありのままを、淡々と、我情・我欲をさしはさまず、たださながらに聴く。


これが本当の聴き方である。


この耳で聴くと、相手は喜び、いよいよスナオになる。


この耳で聴いたことは、生きる知恵となって、


人生を支えてくれる。


<倫理研究所発行 08'標語カレンダーより>


◆清き耳の小論文は、以下に続く・・・


『 聞こえても、そのままの意味に取らなかったり、反対に取ったり、


裏を考えたり、ひねったりする人の耳は、その耳の穴が歪(ゆが)んでいるのであろう。


歪んでいるから、言葉がねじけて入ってくる。


通りが悪い、外の状況がそのままに耳の中に伝わらないのである。


耳の門番に、いかがわしい輩(やから)がいて、外界のよう様子を


ありのままに、ご主人に知らさないのに等しい。』


(PHP研究所 丸山敏雄一日一話 p97)



※言葉の意味


ねじける(拗ける)=曲がりくねる。素直でない。ひねくれる。普通と違ってまともでない。


いかがわしい(如何わしい)=正体がはっきりしない。疑わしい。怪しい。風紀上よろしくない。好ましくない。


輩(やから)=「族」とも書く。一家一門。うからやから。ともがら。仲間。多くは卑しめていう。不平を言いい、また、口論をしかける者。


◆「耳」の話なんて、日ごろは話の種にもなりませんよね。


しかし、こんなに深い意味があるのかと知ると、先人たちは偉かったのですね~


毎日、目先の雑事に追われてばかり居る中、時には心を静めて、話題にもならないことを教えて


もらい、勉強することもあってもいいなぁ~と思います。



◆『論語』の中で孔子は、「六十にして耳順(したが)う」と教えています。


人間60歳にでもなれば、年長者として若い人を育てる責任もあるのではないでしょうか。


歩んできた人生の苦労を通して、若い人に示唆(しさ)を与えることの出来るほどの分別(ふんべつ)も具わってきています。


また、見方を変えれば、このように60という人生の後半を迎える節目に来たら、教えるだけの年輩者(ねんぱいしゃ)になるのではなく、


「耳順(したが)う」を心において、


素直になって、人のいうことに耳を傾け、若い人からも学ぶことを心しなければならないよ!


と自覚をうながしているのです。


私たちは、人の話もろくに聞かない、学ぶこともしない、自分中心のことしか考えずに、人の痛みも解ろうとしなかったら、


耳は小さく閉ざされてしまっているのです。


小さな耳は、学ぼうとしない、自分のことしか解らない「耳」なのです。


60になって、頑固、無知な人間になるか、


60からの”人生の深さ”を学ぶことの出来る人間になるか、の


人生後半の分岐点なのです。


(一部分 PHP研究所 石川 洋著 一燈園法話より抜粋p163)



◆耳は・・・清き耳・・・「老後の初心」 としたいものです。



ありがとうございます



~しろしろジイチャン~