国民主権は正しい選択だったのか?
大東亜戦争に敗北した日本は、GHQの占領政策の一環として、憲法の改正を余儀なくされました。
これまでの天皇主権による大日本帝国憲法を改め、国民主権を明記した日本国憲法として昭和21年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行。
以来65年、一度も改正されることなく続いてきた日本国憲法下において、国民主権となった日本は何を得、そして何を失ったのでしょうか。
戦前の大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法と比較する形で検証してみたいと思います。
明治憲法では主権者は天皇陛下でした。国家元首としての天皇が実際の権限を有していた訳です。しかしよく誤解されるような天皇独裁ではありませんでした。帝国議会という国会を開き、選挙で選ばれた政治家が議論を交わし、最終的に天皇の裁可を仰ぐという形ですが、ほとんど天皇が異議を唱えることは無かったと言います。
一方、日本国憲法では国民主権です。国民という不特定多数、老若男女、すべての日本人が主権者である訳ですが、これは一見国民がみな平等な権利を与えられているかのように見えます。しかし実際に国政に影響力があるのはごく一部、その他大勢の国民の意見がどこまで反映されいるのか甚だ疑問です。
それは今回の衆議院における「社会保障と税の一体改革」の件でも明らかで、ほとんどの国民が増税に反対だったにも関わらず、民意を置き去りにするような形で法案が採決されてしまいました。これが果たして民主主義と言えるのでしょうか。民主党は政権与党になったことで、自分達は民意を反映していると称していますが、詐欺まがいのマニフェストで国民を欺いた結果に過ぎません。そのような政党が勝手に政権を運営しているのを、衆議院の任期満了まで黙って見ているしか無いというのは、民主主義の明らかな欠陥だと思います。
主権が国民ひとりひとりに分散してしまったことによって、結果的に権力が弱体化したということでしょう。権力の集中による独裁は防げますが、政治腐敗に対する抑止力を失ってしまいました。政治家や官僚に国を背負っているという責任と覚悟がまるで感じられないのがその証拠ではないでしょうか。何か問題があっても、それは国民全員で決めたことだからという言い逃れが成立してしまう社会、それが国民主権の欠点でもあるのだと思います。
明治憲法下において主権者である天皇陛下は、権力の代償として国家元首としての責任と義務を果たし、何より国家を背負うという気構えがあったように思います。この考え方は「ノブレス・オブリージュ」といって、「位の高いものは徳も高くあるべきだ」というフランス貴族の精神を現したものです。そうした天皇の姿を見て、国政に携わる政治家や軍人も気を引き締めて国家運営に関わっていたように感じます。それに引き替え、現代社会では主権者である国民ひとりひとりが国を背負うほどの責任と覚悟を持って日々暮らしているでしょうか。この国民一人あたりの責任の軽さは、道徳観、倫理観の低下にも繋がっている気がします。
相次ぐ不祥事や、日本人のマナーの低下、無責任な大人の増加、これらを単に時代の流れとして片付けて良いものでしょうか。
「昔の日本人には気骨があった」とか「昔の日本には地域の連帯感やあたたかみがあった」など懐古趣味的な言葉もよく聞きますが、昔の日本にあって今の日本に無いものこそ、社会全体としての規範、お手本だと思います。
昔は父親といえば尊敬の対象でした、威厳に満ちあふれ、まさしく家族の規範となる存在です。また学校の先生や、軍人、警察官など身近に尊敬の対象となる人達がたくさんいたのです。子どもたちはそんな大人を見て育ち、自分もまた尊敬される大人になるべく努力をするという好循環が成立する社会、そしてそれら全ての国民の規範として存在していたのが天皇陛下であったのだと思います。
その天皇陛下の教育理念を端的にまとめたのが「教育勅語」です。
これは明治天皇からのお言葉として教科書の最初のページに必ず記載されていたと言います。
以下にその口語訳を転載させていただきました。
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『教育勅語』(口語訳)
私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印
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この「教育勅語」を戦後の教育では軍国主義的だとか天皇崇拝を助長しているとして封殺してきました。確かに皇室について言及している箇所はあるものの、大部分は道徳的なことであり、日本人としてどのように生きるべきかを文章化したものだと思います。
現行憲法を正当化する為に、明治憲法は不当に貶められてきました。あたかも天皇独裁で軍国主義的な恐ろしい時代であったかのように。しかしこの「教育勅語」を読んでもわかるように、なんでもかんでも自由平等反戦平和と唱える現代の教育よりも、もっと現実に即したわかりやすく、愛情に溢れた教育理念であると思います。
憲法改正と同時に教育勅語も失われてしまったのは残念でなりません。
このように戦前の日本には社会の規範となる教え「教育勅語」があり、多くの日本人にとっての道標となっていたのではないかと思います。
翻って現代社会にそのような道標があるかというと、皆目検討がつきません。父親の威厳は地に落ち、周りを見渡しても自分勝手な大人ばかり、そんな大人を見て育った子どもにまともな道徳心が育つのか怪しいものです。
実際、教師の権限も失墜し至るところで学級崩壊、モンスターペアレントと言われる身勝手な親も社会問題にまでなっています。
これは国民主権によって、個人の自由が尊重され過ぎた結果なのではないでしょうか。
独立心旺盛で個人の力で逞しく生きていける人にとっては生きやすい世界かもしれません、しかし、強い人間ばかりではありません、生きることに迷い、何かにすがりたい、心の支えが欲しいと思っている人にとって「自由」とは不安定で頼りないものでしょう。毎年の自殺者数は増加の一途を辿り、近年では若者の就職難を苦にした自殺も目立つといいます。現在の教育ではこれらの若者たちに対して、何もしてあげられなかったことを意味するのではないでしょうか。
我々日本人は国民主権によって個人の自由を得ましたが、代わりに心の拠り所を失ってしまったのかもしれません。