私にとって依存症(←それなしでは生き辛いが、それが害になっている状態)の研究はライフワーク (o^-')b
なぜなら、現代社会自体が依存症的だと感じるし、個別に見れば、父親と自分もそうだ。また前職(保護観察官)の時に、薬物、アルコール、恋愛等、色々な依存症に目を引かれたから…
『 なんで、そうなるの? 』
簡単に言えば、もつれた糸をほぐしたいって感じかな σ(^ー^;)
勉強したことで、自分が納得した考察と体感をゆっくり書きたいと思う (▰˘◡˘▰)
今日は主体の喪失について☆
生きて行くと言うことは、楽しいことばかりではない。でも、大変ながらも楽しさを享受できる余裕がある人と、依存症になるぐらい生き辛い人との差は?と考えると…
自分主体に生きているか、いないかだと思うのだよね (*゚.゚)ゞ
自分主体で生きるって何か?私は自分の喜怒哀楽に基づいて生きれることだと思っていて…
依存症を研究した本でも、依存症の人の感情鈍麻、感情の暴発については考察されている
自分の感情を感じられない原因は、自分主体で生きていないからだとして…では誰が主体になっているのか?
それは自分にトラウマを与えた誰かの価値観を主体にしてしまっているのかなと(=呪われている)…
そうしたら、素面で生きているのが辛い理由が分かる気がしたのだよね
ヨシヨシ( ,,´・ω・)ノ"(´っω・`。)
ふむ、今日はここまで…次は、主体を失くしていると起きることについて書こうと思う
ヾ(;ω;)