今回、紹介する西国三十三ヶ所観音霊場は、岐阜県揖斐郡にある第33番札所「華厳寺」です。西国三十三ヶ所観音霊場、満願結願のお寺です。
第1番札所「青岸渡寺」を巡礼してから最後に「華厳寺」で満願したかったのですが、「青岸渡寺」が台風12号の被害で交通網が不安で、しばらく様子をみることにしたことと、冬の時期になると岐阜県辺りは積雪の恐れがあるんで、先に「華厳寺」を巡礼しました。
昔と違って「華厳寺」が絶対に最後じゃないとダメだってことはないんで、現在では気持ち的な問題でしょうね。
西国三十三ヶ所観音霊場、第33番札所「谷汲山(たにぐみさん) 華厳寺」。創建は798年。開基は「大口大領(おおぐちだいりょう)、豊然上人(ぶねんしょうにん)」。宗派は「天台宗」。本尊は「十一面観世音菩薩像」。
詠歌は過去(満願堂)、現在(本堂)、未来(笈摺堂)の3種類あります。
過去 「万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲」
現在 「世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり」
未来 「今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲」
「華厳寺」の始まりは寺伝によると、798年に奥州会津出身の「大口大領」が地元の「文殊菩薩」から授かった霊木を、京の仏師に自ら信仰する「十一面観世音菩薩」を刻ませた。
帰路の途中、観音像は突然歩き出し美濃国赤坂(岐阜県大垣市赤坂)に差し掛かった時に、「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と告げ、帰路とは違う北方向へ歩き出した。
そして谷汲の地へやって来た時に突然、観音像は立ち止まり動かなくなってしまった。「大口大領」はこの谷汲の地が観音像の結縁の地だと思い草庵を組み、この地で修行していた「豊然上人」の協力を得て、堂宇を建立し「十一面観世音菩薩像」を祀った。
堂宇建立の際に谷の岩穴から油が湧き出して、この油を仏前の灯明用として使用したが、汲めども尽きなかったという。
917年、この話を聞いた「醍醐天皇」は、このことにちなんで山号を「谷汲山」、本尊の「十一面観世音菩薩像」に、「華厳経」が書写されている事から「華厳寺」の扁額を授かったと伝えられている。
944年、「朱雀天皇」の勅願寺として繁栄していき、986年、西国三十三ヶ所観音霊場、中興の祖「花山法王」が巡幸し、「華厳寺」を満願所と決め、笈摺、杖、三首の詠歌を奉納したと伝えられている。
1334年、足利氏と新田氏の戦乱で堂宇は焼失、その後再興するも度重なる兵火で焼失するが、本尊は難を逃れたようです。
現在の「華厳寺」の寺観は江戸時代、薩摩国鹿児島の「慈眼寺」の住職「道破拾穀(どうはじっこく)上人」により再興されたものです。
「華厳寺」は西国三十三ヶ所観音霊場、唯一の近畿外の岐阜県にあるお寺で道のりは結構長いです。
高速では名神高速道路で「関ヶ原」または「大垣」から、下道で約30分ぐらいかけて行きます。
車では「総門」を抜け、「仁王門」側まで行くことが出来ます。
仁王門。宝暦年間(1751~1764)に再建。昭和になって改築した。
「仁王門」には「運慶」作の「金剛力士像」が安置されている。
「仁王門」を抜けると、一直線に「本堂」へ向かう道があります。
長い一直線の道に108基の石燈籠が左右にあり、様々な堂などがあります。
「仁王門」を抜けると右手に「放生池」があり、中央に「地蔵堂」があります。
少し進むと中央に「三十三度石」があります。
少し進むと右手に「一乗院」、「十王堂」、「羅漢堂」があり、左手には「法輪院」、「明王院」があります。
明王院。愛知県の豊川稲荷から分祀した、荼枳尼天(だらにてん)を祀る。
「明王院」の奥には「阿弥陀如来」が祀られていて、側には「水琴弁財天」が安置されています。
「明王院」から少し進むと、「百度石」が中央に立っています。
「本堂」へ上がる石段手前には「焼香堂」、「手水舎」があります。
龍の口からじゃなくて観音様が持っている水瓶から水が出ている。
「本堂」へ上がる石段は多くはありませんが2つの踊り場があって、左右にはそれぞれ堂宇などがあります。「華厳寺」のホームページなどには、ほとんど詳しい詳細は書かれていません。
最初の踊り場には左手に「経堂」、右手に「英霊堂」があります。
「英霊堂」の奥には「魚藍(ぎょらん)観世音菩薩像」がありました。
最後の踊り場には左手に「観音大菩薩像」、「勢至大菩薩像」があり、右手には「三十三所」があります。
「本堂」は1879年に再建されたものであり、秘仏である「十一面観世音菩薩像」が祀られており拝観することは出来ない。お前立ちの「十一面観世音菩薩像」は拝観出来ます。お前立ちの観音様は「満願堂」に安置されているものらしいです。秘仏の本尊は絶対秘仏ではなく開扉は不定だそうです。
本尊の脇侍として左に「不動明王像」、右に「毘沙門天像」が安置されている。「毘沙門天像」は平安初期の作のもので、重要文化財に指定されている。「毘沙門天像」も普段は拝観することは出来ないようです。秘仏の本尊は兵火から免れた当初のもののはずなんですが、文化財指定などを受けてないのが不思議です。
本堂内は撮影禁止なんで、外から拡大ズームして撮影。ブレてます・・・。
本堂内右側。納経所があります。過去、現在、未来の3つの御朱印はここで頂きます。
納経所の前にびんずる尊者が。ちょっと風化してます。可愛らしいよだれ掛けが。
「本堂」正面の左右の柱に、「精進落としの鯉」が打ちつけられている。
これは昔の巡礼者が「華厳寺」で満願の参拝を済ませて、「本堂」から帰路につく際に、この鯉に触れると精進生活から解放されて、通常の生活に戻るという習わしがあったようです。
精進落としの鯉。銅製で出来ている。これは口を閉じている阿形。
「華厳寺」で満願じゃないけど一応、両方の鯉を撫でてきました。
「本堂」には廊下があって裏側に回れ、「笈摺堂」、「子安観音堂」へ行くことが出来る。「本堂」の裏には「苔ノ水地蔵」が安置されています。
「苔ノ水地蔵」は体の悪い人が、悪い所である地蔵様の体と同じ箇所にお札を貼って祈ると回復すると信じられている。
苔ノ水地蔵。水でお札を濡らして、悪い箇所である部分にお札を貼る。膝が多く貼られていました。
「苔ノ水地蔵」から左手へ行くとまず、「笈摺堂」へ着きます。
本堂から廊下で繋がっている。千羽鶴がたくさんかけられている。何故かというと・・・。
「笈摺堂」は「華厳寺」で満願すると、巡礼で共に使用した笈摺や金剛杖を昔は奉納していたんだそうです。
この習わしは「花山法皇」が満願所と決めた際に、笈摺と杖を奉納したことから始まったそうです。
今現在、最初に満願した人が笈摺を奉納することは少なく、千羽鶴を奉納する人が多いんだそうです。なので「笈摺堂」の周りに千羽鶴がかかっているんです。
笈摺は人が亡くなった時に、棺の中へ一緒に入れて荼毘に付す習慣があるんで、2巡目で満願した際に収めているかと思います。
以前、第32番札所「観音正寺」の住職さんに話を聞いたのですが、満願した笈摺は自分が亡くなって、あの世で「閻魔大王」の裁きを受ける際に身に付けていると、「閻魔大王」が苦労して西国観音霊場を巡礼したんだなと認めてくれて、自分が生涯犯した罪を軽減し、極楽浄土へ行ける可能性が高くなるんだそうです。納経帳も同じ効果があるようです。
笈摺はあの世での「ユニフォーム」であって、納経帳は「パスポート」みたいなものだそうです。
「笈摺堂」に隣接して「子安観音堂」があります。
子安観音堂。安産、子授けを祈願する。よだれ掛けがかかってます。
「子安観音堂」から、さらに石段が続いていて「満願堂」があります。
「華厳寺」の参拝は「本堂(現在)」、「笈摺堂(未来)」、「満願堂(過去)」の3つをお参りしなければいけません。しかし「本堂」で3つの御朱印を頂けるので、上にある「満願堂」へ参拝する人は少ないようです。
「満願堂」は何故か、たぬきの石像がたくさんあります。
何故、たぬきの石像があるかというと、たぬきは「他を抜く」と言われて縁起が良いので、満願した人が奉納したようです。
「満願堂」からさらに上へ登る山道があります。この山道は「奥之院」へ向かう山道でして、道のりは険しく人によりますが約40分程度かけて、歩いていかなければいけません。
普通の山道ではなく、木の根っこが剥き出しになっている道もあり、他のブロガーの人の画像を見る限り、かなりしんどいと思われます。また「山ヒル」が多いようで、結構知らない内に吸われてる被害も多いようで諦めました・・・。
「奥之院」までは山道に、西国三十三ヶ所観音霊場の本尊である小さな石像が安置されてるようです。
これは最初にある第1番札所青岸渡寺の本尊、如意輪観音。時間と山ヒルさえいなきゃなぁ・・・。
「華厳寺」には多くの堂宇などがあり、字数制限で紹介しきれないので2つに分けてアップします。
今回はここまでで。
















































