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ちゃらんぽらんとは言えない旅行記を更新しました。
仙台市博物館と仙台城跡

仙台観光の詳細を記した記事。その2
その1はこのブログでは紹介してませんが、ちゃらんぽらんとは言えない旅行記から行けます。たぶんまだ作っていないその3以降についても同様と思う(^ ^;

元々は、舞台版「幕が上がる」、いかに戯曲が現実にオーバーラップしたか の記事の末尾に加えていた記事だったが、分離しました。


★以下は蛇足という名でメモ



蛇足だが、書き足りない部分を付き足したい。
結局さんざん書き記したように舞台版も映画版も中西悦子の物語といっても過言ではない。その物語を紡ぎ出すのが高橋さおりであり、このストーリーの根幹をなす二人のサポート役がユッコだから、この3人が主役で物語を主題を回している。他の9人、ガルルも明美ちゃんも高田も脇役以上の役ではないが、
これが役割分担というものなのだから仕方がない。全員いてこそ主軸が正しく回るというものなのだ。


さおりは普段の笑顔を封印しての名演となった。吉岡先生抜けた直後の稽古シーンなど仏頂面が多い。
どんな状況でも俳優に様々な要求をしなければならない演出家として悩むシーン、中西さんのことを本気で心配するシーンなど迫真といえる。
客が笑えるシーンは明美ちゃんの好きですのシーンくらいでほぼ全般シリアスを貫いているのも普段の百田夏菜子を考えると相当な演技だとわかるだろう。


ユッコは一様に名演技を続けた。看板女優の名に恥じないジョバンニは圧巻だし、中西さんを元気づけるカラオケも名演。部員達が集う稽古シーン、屋上のシーン、そのどれもが素晴らしい。演じきった玉井詩織はももクロの中でも最も女優の才能を感じさせるというしかない。
また吉岡先生が去った直後から中西さんと昼に一緒に稽古し仲良しというのも微笑ましい。だからなのか、部活禁止期間中にも関わらず屋上のシーンでも埴輪だった。これはユッコの隠れた中西さんへの心配の表現だったのか?


中西さんは舞台版ストーリーの中心。有安杏果がカラオケ店での長台詞でみせる感情の入った演技は映画版の駅のシーンに並ぶ「幕が上がる」の根幹をなす名場面だ。稽古中のカンパネルラにも反映したこの被災者でありジョバンニという難しい役どころを演じた有安杏果もまた美事な名演だった。


というこの三人が主軸なのは疑いようがないのだが、


それでもガルルは舞台版における敢闘賞である。映画版では若干出番に欠ける部分もあったが、舞台版では面目躍如とばかりに、ザネリだけではなく、カンパネルラの父という難役をこなし、更には少年や灯台守など多数の役をやりつつ、それぞれ演じ分けていた。
もちろん母子家庭でもお笑いキャラのガルル自身も含めて。アドリブも効いていて、助演としては最高の活躍ぶりだったと思う。
実は舞台を初めて見たときはもっともすごみを感じたのが高城れにだった。


高田はそのガルルを破天荒なまでに更に引き立てる役。映画版以上に徹底していた。恐るべき伊藤沙莉だ。
それにしてもなぜ映画版では二年だったのに、舞台版では一年になったかと言えば、おそらくは二年のままでは明美ちゃんより目立ちかねない、というよりも一年生が全体的に目立たなくなってしまうからだろう。
舞台を舞台らしく楽しませるという大きな役割を美事に演じ切れていたと思う。せりふ渡しも一年のくせに上手すぎるというマイナス評価になりかねないのは玉に瑕。
ただそれは他の一年も同じなわけだが。それも来年を考えた吉岡先生を引き継いださおりの稽古方針の賜と思えば、さおりの力量というものなのかもしれないが。


明美ちゃんはさすが二年生のリーダー。なかなか本筋には入ってこれない役回りということもあるが、がる先輩との絡みは高田とは違う意味で笑わせてもらえたし、教室の舞台稽古のシーンでは常に目立ち続けた。佐々木彩夏の威圧感だからこその役回りは果たせたといえるだろう。。
少々残念なところは先生のイメージが強すぎるせいか、せりふ渡しのシーンではいまいち目立ててないような気がしたところか。


袴田、村上、松永、坂下、八木、成田についてもみんな素晴らしい出来映えだったのも間違い無い。台詞渡しの効果もあるが、出番多数。
しゃべってない時の視線。同時多発会話。まったく自然体のような舞台を観れたのも12人の演者みんなの活躍あればこそというもの。




このブログの使い方としてはイレギュラーになるが、★ネタばれ感想記事

ももクロ主演の舞台「幕が上がる」
今更であるが、5/1~5/24の全27回公演のうち、六本木ZEPPブルーシアターへ7回観劇しに行った。
5/2マチネ(昼)、5/10(マチソワ=昼夜)、5/17ソワレ(夜)、5/23(マチソワ)、5/24ソワレ
まさに毎週、楽しい思い出となった。

今まで演劇と言えば、大学時代の友人のサークル、美輪明宏の黒蜥蜴と2,3回(12年以上前+2,3年前),つい最近先月4月末の駒場アゴラ劇場「誰」ぐらいしか観たことが無い。

だから演劇については素人ではあるが、素人なりの感想を残しておきたいと思う。
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表題『舞台版「幕が上がる」、いかに戯曲が現実にオーバーラップしたか』


★舞台版、一番の謎

舞台版は、もともと映画版とは設定が若干違うからパラレルワールドなのだが、時系列的には映画版の後半、地区大会が終わって吉岡先生が去った次の日から始まる。

一番の謎はラストシーンだろう。
なぜ中西さんは制服だったのか?
 
リアルタイムで舞台を観ていたときは、クライマックスということもあり、一番印象かつ不思議に思ったシーンで有り続けたのは間違いないところだ。

実は河出書房新社の文藝別冊「平田オリザ」に収録されている台本を読むとそんなに複雑なわけではないようなのだが、実は重要な記載が隠されている。
中西さんがジョバンニという記述。ほんとにサラッと書いているので、気にもせず流しそうにもなるが、本劇のフィナーレを飾る非常に重要なファクターなのだ。



★ラストシーンへの流れ

まずそのラストシーンへとつながる流れを整理しよう。
中西さんは舞台稽古中、さおりが新しく追加したところの「カンパネルラまだ髪が濡れてるよ」の所で声が出なくなってしまう。
そこから、実は中西さんが盛岡在住中に東日本大震災を経験していることが判明した後のカラオケ店の名シーンへとつながっていく。
この舞台版におけるもっとも重要で涙を誘う長台詞を含む名シーンで、中西さん最大の見せ場となっているところだ。

その後の舞台稽古のシーンでは、中西さんは稽古に復帰しておらず不在であり、中西さんを除く10人の部員達で台詞渡しの演技を稽古しながら、各人がラフな稽古着からいつの間に少しずつ衣装を付けたり、セットの導線もしっかり揃えたり、最後は稽古にしては本格的すぎるまでの舞台装置もそろった状態で行っていたりと不思議な流れになっていく中で、クライマックスのジョバンニ迫真の演技のさなか、カンパネルラの衣装を身につけていない、制服姿の中西さんが登場する。

シーンそのものは原作の小説版や映画版でもおなじみの感動的シーンであり、クルミによる「夢だけど夢じゃ無かった」のフィナーレとなっているが、制服姿の中西さんだけが強烈な印象を残す形となっているのだ。



★ユッコの救いの歌

そもそもカンパネルラは死、ジョバンニは生。生きているジョバンニがカンパネルラの死を乗り越えるまでの儀式が妄想上の夢としての銀河鉄道の旅だとすれば、カンパネルラを演じる中西さんは生の側、
むしろ死を深く間近に感じながらも、生き残ってしまった理由を自問することになってしまった側なのだ。

カンパネルラは本当の幸せを得たのか、それを中西さん自身も実際の震災を経験し、皆を助けるために死んでしまった人がいることを実感しているだけに、知りたかったのだ。
頭ではなんとなく理解できたつもりていても、やはり心のどこかで疑問に残っていたのだ。
だからこそ、カラオケのシーンでのユッコの後押し、つまり「悲しくてやりきれない」が非常に心理面をサポートし、たいしたことではないと言い聞かせるように抑えつけて誰にも言えなかった内心を言葉に出来たのだろう。



★中西さんの孤独とジョバンニ

そして中西さんがひとりぼっちだったと判明した事実、それは映画版での話になるが、なぜあの駅でのシーンで

・それでも人はひとりだよ。宇宙でたったひとりだよ
・でもここにいるのは二人だよ
・銀河鉄道みたい

という流れにつながったのだろう。全国大会の帰りの電車内で、さおりがあまりにもあっさりと「銀河鉄道の夜」を台本にすると決めた小説版とは大きく異なるが、このシーンが映画版における「銀河鉄道の夜」台本化の流れということもあり、映画版の時点でも最重要シーンなのだが、更に舞台版で中西さんのバックボーンが判明するに至って意味合いが大きく深まって、もはや超が付くほどの重要シーンへの昇華した感すらもある。

まず相対性理論から採った宇宙は広っていくから人間は一人という論理展開は「銀河鉄道の夜」原作には出てこないフレーズである。
しかし宮沢賢治の原作においても最初の先生の天の川の講義は天体達のつながりを示唆していたし、
またジョバンニは孤独を感じていた。そしてその孤独を内々から打ち消せる存在がいつまでも一緒にいたい存在カムパネルラだった。
最後は夢から覚めたことで孤独になったようでいて、そうではなく、カンパネルラや少年など銀河鉄道に出てきた人物たちが大事な大事な心の支えとなって、ジョバンニは本当の幸福を探す生きる者のとしての人生の長い旅路に出て行くことが出来たのだ。

そしてこの時の銀河鉄道の夜を想起した中西さんは自身はジョバンニだと強く思ったのかもしれない。
そもそもジョバンニは孤独、中西さんも孤独。なぜ孤独を感じていたかと言えば、それは舞台版で判明した震災の話につながっていく。

舞台版の中西さんは、盛岡で震災を経験し、津波被害などは関係ないものの、直後の停電の影響もあって、リアルタイムでは何もわからず、その後、いきなり甚大な被害状況の全てを目の当たりにすることになった。
そして被災者を支援するボランティアなどもすることで、直に震災という現実を肌で感じることとなった。
その中において、人助けした人が亡くなった事実を知ったり、助かった多くの人が共通に感じた生き残った理由を自問してしまう一種の罪悪感。
でもその真なる思いの方向は皆で共有しているわけではなく、各人がそれぞれの感覚で心の内に秘めたるもの。
ましてやその後、静岡へ引っ越すことになる中西さんは、その秘めた思いを誰にもはき出すことも出来ず、深層心理で眠らせておくしかなかった。

映画の「銀河鉄道みたい」のシーンでは、中西さんは自身とジョバンニの共通項を見いだした。
しかしそのジョバンニは銀河鉄道でカンパネルラと旅している時のジョバンニだった。
カンパネルラとどこまでも一緒に行こうと誓っていた頃のジョバンニだった。
だから中西さんにとって、さおりは優しいカンパネルラ。死という意味では無いカンパネルラ。ただただ孤独を救ってくれる存在だったのだ。

それに対して舞台版では中西さんは「ジョバンニの気持ちがわからない」「髪が濡れていた時点でカンパネルラの死を知っていた」と言う。
ここではラストシーンに至るまでのジョバンニについて語っているのだろう。
まだこの時点では中西さんはジョバンニに共感しつつも、まだラストで生きることに希望を見出すジョバンニを理解し切れていないのだ。
変な話だが、ジョバンニになりきれていないのだ。
だから髪が濡れているよ、と死を予見させる台詞に対して必要以上の重々さをもって受け取ってしまう。
銀河を一周するくらいの時間にはまだ足りてない。
このようにまだまだ内心では足りてないことが判明したのが舞台稽古のさなかだった。そしてそれを解放へと向かわせたのが、さおりであり、ユッコだった。



★中西さんの脱皮、現実へのオーバーラップ

舞台のラストシーンは、カンパネルラでもあり、ジョバンニとなった中西さんでもある、不思議な人物。
前述のユッコのカラオケにより、誰にも言えなかった思いの丈を言葉にすることで、中西さんは深層心理に残っていたなんとない孤独や罪悪感といった不安から抜け出し、舞台後半のさおりが全部員に言った台詞「みんな少しずつカンパネルラだね」という言葉に集約されているように本当の優しさや幸せが何かを考える強い心を得ることができるようになったのではないか。そういう意味ではカンパネルラとしても覚醒したのだ。

「夢だけど夢じゃ無かった」という銀河鉄道の旅で得たクルミを鳴らし合うラストシーン。これは中西さんにとっても、「戯曲だけど戯曲じゃなかった」という意味にもなり得ていたということだ。

現実の中西さんにとっても、戯曲のジョバンニ同様に、生ある者として銀河鉄道の旅のような長い経験を生かして、これからの未来を力強く生きていく。将来女優へなる決意するという重要なシーンになっているのだろう。

だからこそ、中西さんはカンパネルラの衣装ではなく、ジョバンニの心を手に入れた普段の中西さんのままにカンパネルラを演じる必要があった。これは必然だ。

そこからのさおりとの抱擁の感動も更に増すというもの。そして部員全員への拍手。これは劇中劇に対する喝采なのか、それとも舞台そのものに対する喝采なのか、もはやどちらも入り交じっている。思い出しても感涙しかない。千秋楽に天の川を彷彿させるペンライトの海を演出しようとした本広監督の意図もわかろうものじゃないか。



★天空の地層

ここまで長々と妄想に基づいたラストシーンについて考えてみたことを記してみた。まだまだ考えれば考えるだけ色々浮かんでくるのだろう。
これが平田オリザの「幕が上がる」、天空の地層が複雑というやつなのだろう。

本舞台については、ジョバンニとカンパネルラの物語の連続だったように思う。
まず吉岡先生がいなくなった。これは吉岡先生という不在。もう戻ってくることがない存在。それでもさおり達は吉岡先生から学んだことを生かして未来へ立ち向かっていく。これはカンパネルラの死を乗り越えて成長を誓ったジョバンニの涙ぐましい努力の道筋みたいじゃないか。

そしてラストシーンまで部員も全員はそろわないという点。
まず二年生の松永が不在であり、そして一年生の坂下が不在となる。最後には三年生の中西が不在となる。
しかしいずれも帰ってくる。ここではカンパネルラすらも帰ってくる。大事な大事な部員たちの輝きは、混じり合った天の川のように光に満ちてまぶしいばかり。

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※2015年6月11日、誤字脱字のみを修正し、蛇足は別記事に移しました
シーザーブログでやっている日記、ちゃらんぽらんとは言えない楽屋裏を更新しました。

3/20-21を書いた「初の東北前夜の戦い

3/21-22を書いた「女川復幸祭



ももクロライブを含む女川復幸祭は非常に楽しかった。
普段の遠征以上に女川を肌で感じることが出来たのが大きかったのだろう。

苦しかった前日談も笑い話にできて幸いだった、本当に
テアトル梅田で観てきました。
早見あかり主演の「忘れないと誓ったぼくがいた」
昨年の百瀬同様に変わり者の役でしたが、その変わり方が常軌を逸していて。。。

ネタばれ感想記事をKINENOTEに書きましたので、リンクしておきます
ただしネタばれ記事ですので、観たあとにどうぞ。
救いようのない切なさ
長すぎるネタばれ映画「幕が上がる」の感想がどこにも登録できないので、ここに直接載せます。

本来はキネマ旬報のKINENOTEに登録した「がんばる心を思い出させる青春映画 」(☆ネタばれなし)の後に続くネタばれ部分になりますので、まずはこちらを読んでいただけるとしっくりきます。
これは2/20の讃岐映画祭LV後に書いた感想となりますので、厳密には3回目の感想です




以下★ネタばれ要注意★です。



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序盤、部長の高橋さおり(百田夏菜子)は部を率いることに自信喪失するシーンがある。なにもかも投げ出して逃げ出したくなることは誰もが経験したことはあるんではないだろうか。幸いにも吉岡先生(黒木華)という神を得た高橋さおりは演出という役割も得て、水を得た魚となる。

しかし悩みはつきることはなくて、次は任された台本が書けないという悩みに直面してしまう。それでも今度は逃げるのでなく、考えに考えて答えを探そうと精神を病むような悪夢を見るほどに努力する。結果的に台本「銀河鉄道の夜」にたどり着くのだが、そこへ至るまでがまたドラマチック。中西悦子(有安杏果)との関係もあって、本作最大の見所といっても決して過言ではない。

部長、演出として全体を見る立場となって、悩みの種類も変わっていく。下級生の明美ちゃん(佐々木彩夏)スランプはその1シーンとして描かれる。ここはコミカルも挟みつつも、先輩と後輩の関係が微笑ましいところで、ムードメーカの明美ちゃん復活シーンだ。

そして今度は神が去る。しかしそこから復帰する模様もまたドラマチック。序盤の関係よりもユッコ(玉井詩織)、がるる(高城れに)との友情、仲間関係も相当深まっていることも示唆してくれる。そして高橋さおりは中西さんへ向けた決意表明もそうだが、人生の転機に決意表明し、周りを引っ張っていく力を持っている。その成長過程を自然に観れるのだから感動するしかないだろう。

以前の百田夏菜子は取り立てて演技が上手いというわけではなかったのだが、それだけに本映画を観ると、圧倒的な成長を実感するしかない。まさに秀逸。手放しで褒めたくなるほどだ。等身大の高橋さおりになりきっていた。それでいて劇中劇の演出も原作者の平田オリザとそっくりと、平田オリザ本人にすら言わしめるのだから、まさに真っ白だったからこその急成長だったのかもしれない。主役の語り役だけに本映画に涙できるのは百田夏菜子の活躍によるところが一番大きい。

中西悦子(有安杏果)は転校生、全国大会を目指すような強豪校からの転校生。その理由は前述の高橋さおりが病むほどの悩みから「銀河鉄道の夜」の台本にたどり着くまでに語られる涙なくして観れない一大ポイントで明らかになるのだが、とにかく最初は陰があり、笑顔は見せてくれない。振り返りシーンが美しいだけだが、その絵自体が陰を帯びている。

中西さんの悩みは深く、一度逃げ出してしまっている。演劇が好きでたまらないけど、周囲のプレッシャーに押しつぶされて自信を失いもはや演劇に関われるわけにはいかないと矛盾する自己暗示に陥っているところにある。

中西さんにとっての神は吉岡先生では決してなく、高橋さおりだった。同じく演劇で悩みを持つが決して逃げることなく回答を探し続ける高橋さおりは、逃げてしまった中西さんを救い出すことになり、そして同時に中西さんは高橋さおりを混迷から救い出す役割を担っている。だからこそ高橋さおりの「銀河鉄道の夜」へとつながり、中西さんは、宇宙は広がり続けて人は一人かもしれないが、演劇を志す大事な仲間は傍にいるということに気づくのだ。つまり同じ志を持つ仲間がいる限りは、必要以上に一人で気負う必要はないことに気づくのだ。

ここは原作にも似たシーンはあるものの、原作の中西さんは東京に何度も通いプロの女優を実際に目指しているという覚悟がある。まさに天才として描かれている。のに対して映画の中西さんは心に弱さを持っている。それが高橋さおりに救われ、演劇の純粋な楽しさを取り戻す過程が素晴らしい、そういう意味で原作ともっとも異なる要素を持つキャラクターだ。原作よりも遙かに複雑な内情が描かれたキャラクターだ。

中西さんには後半はユッコとの関係性にスポットが当たる。さおりとのエピソードにて中西さんの陰が消え、演技に自信を取り戻した中盤と、終盤には笑顔をたくさん見せるようになる。これはやはりユッコとの関係が大きい。

この演劇や他人全般、ユッコという苦手意識を持たれた相手に対する心中が作中で大きく変わる役割を美事にこなした有安杏果もまた本映画における大きな成果だったのではないか。これも原作を読みこなし、中西という人間を追求し、本広監督にもその都度質問をぶつけた有安杏果の努力の賜なのだろう。


ユッコ(玉井詩織)は高橋さおりと仲良し役として描かれる。同じクラスでもある。しかし序盤と終盤ではその関係が大きく変わっているのは演劇部に対する思いの変化が生んだものか、終盤のユッコはさおりの心情を見抜いている。当然、逆もしかり。以心伝心のごとくだ。

ユッコの玉井詩織は中西さんへの嫉妬をうまく表現できていた。序盤から中盤までの変化。織り交ぜる真顔。中西さんが来るまえのユッコはキラキラと笑顔、ところが中西さんとの関わりになると複雑な真顔なのだ。いわば子供っぽさを表現していたのだ。

それが溶け始めたのが、あの吉岡先生が連れてきたビルの光に包まれたシーン。そしてそれに続くさおりとの本音をぶつけるシーンここで自分が輝くだけではなく、周囲も輝かせることの重要さに気づく。その後の、黄色のペンキを塗る中西さんと、緑色のペンキを塗るユッコのシーンはももクロファンならば、ニヤリとする簡単な仕掛けがあるのだが、演出のさおりとの関係性も含めて、非常に深くてつながりを感じる、映画では重要なシーンとなっている。

更にラストにつながる県大会前日のここも全体からして泣けるシーンでは、もう微笑ましくて仕方がないくらいなのだから、中西さんとの関係性はにやついてしまうしかないだろう。それが高橋さおり目線でもあるのだからなおさらだ。

もちろんユッコといえば「銀河鉄道の夜」の主役ジョバンニ役も必見だ。もっとも出番が多く、映画の劇中劇での活躍は目覚ましい。原作に比べ、現実的な受験という要素がほとんど抜け落ちてしまっている映画版にあって、ユッコは特に原作でその心理的影響が強かっただけにキャラが単純化されている部分もあるかもしれないが、その分、さおりと中西さんとの心理的関係はより複雑になっていたのだから、この心情を演じ切れた玉井詩織の役割も大きいというしかない。

がるる(高城れに)は原作通りのキャラ。明るくてオーバーで、静かな演技が主流の本作にあって、動的な演技を織り交ぜて、一見不釣り合いにも見えるけど、それが原作通りなのだから、本当にすごい。母子家庭でバイト生活なのだが、おちゃらけているようで、将来の夢も展望している実はもっともしっかりしているキャラ。表面だけではなく、内情まで想像して映画を観ると、楽しみも広がるというものだ。そして笑福亭鶴瓶がお爺ちゃんというのも楽しい。肖像画の演技で見せたシーンを思い浮かべたり、がるるというあだ名を聴いた時の釣瓶の反応を考えると、また楽しい。
吉岡先生が去ったという手紙を溝口先生(ムロツヨシ)が読むシーン。このシーンはピエロのような道化役の溝口先生が一気に光りをあびるシーンでもあるのだが、がるるはここでは静かな感動を呼び込む演技ができていた。原作も映画も深い内情は描かれなかったが、何か深い悩みも抱えているとは思う。そこはスピンオフに期待して、高城れにの真骨頂もそこに期待したいところだ。


明美ちゃん(佐々木彩夏)は下級生のリーダー格。だからこそ高橋さおり部長にプレッシャーもかけてしまう一方で、ユッコや中西さんが複雑な時にも双方に声をかけることもできる。スランプのシーンはまさに演技力、わざと劇中劇のスランプを演じるんだから、相当難しかったに違いない。その後の高橋さおりとのシーンは今映画最大のコミカル。そのコミカルとスランプやさおりと本音をぶつけ合うシリアス、そして劇中劇の稽古が一気に凝縮されたすごいシーン。


吉岡先生(黒木華)は最初の肖像画で見せた神がかりの演技と風という自然の演出、さおりの悪夢のシーンの演技。どれも秀逸で、言うことなし。演劇部にとっての神だった吉岡も、演劇に取り憑かれた者として、しかし皆を見捨てて、自身の夢へと走る。その過程の見えないところのテンションの変遷も良く伝わる演技だったと思う。

本映画は努力が報われた展開となったものの、演劇部が勝てなかった場合という想定は、さおり達の先輩を出すことである程度は回避できるていると思う。演劇の魅力に取り憑かれている限りは、まだ先にはチャンスが続いているということを示唆している。舞台にいる限りはどこへでも行けるのだ。そして当初の吉岡先生の道だって間違えていないのだとも示唆している。自分自身の夢をつかむためには何かを犠牲にしなくてはならない。当然犠牲になった方はたまらないが、それでも立ち直って前へ進まなければならないのだ。

中盤のさおり、中西さんの駅のシーンは前述したように感動シーンの最たるものだが、ラストの怒濤の流れも素晴らしい。原作が残した浄化作用とはまた違う終わり方ではあるが、映画「幕が上がる」としては素晴らしく綺麗に終わっている。原作で見られた県大会へむけた劇中劇の改良のシーンはあまりにもあっさりしているし、拍手喝采までみられなかったのは、少し残念な点ではあるものの、原作とはまるで違う感動と深い余韻を残してくれたのは間違いない。

こうなると続編が見たくなるが、これはあらゆる名作映画を見終わってしまった後に感じる普遍的な欲求なのだろう。ももクロファンというフィルターが余計に思えるくらい素晴らしい映画だった。


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※ちなみに私(inat/あいなっと/アイナット)が書いた感想としては、今のところこんなところ。
1回目(完成披露試写会)は感想というよりネタばれなしツイートをまとめたもの「「幕が上がる」完成披露試写会 」(☆ネタばれなし)
2回目(お台場舞台挨拶)のネタばれ感想はYAHOO映画「導き導かれる人生のような青春映画 」(★ネタばれ注意
2回目のネタばれなし感想映画.COM「変化球無しの真っ直ぐな情熱! 青春映画の金字塔 」(☆ネタばれなし)
原作は文庫も買って読んだので2回読みましたが、1回目のネタばれなし感想「幕が上がる/平田オリザ/講談社 」(☆ネタばれなし)
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