↓39年前に作った曲を、手直しして

 youtubeにアップしてみましたww

 

今どきの若い人たちは、
いまさら、太宰治なんて、ぜんぜん読まないかもしれないが、
自分の若かったころの数十年前は、
ある程度、本を読むのがキライでない人は、
だいたい、男女ともに太宰治を普通に読んでいた感じがする。
その頃はまだ、文豪と呼ばれるような人もけっこう存命していたし、
「純文学」なんていう、かたくるしいジャンルが、まだ生きていて、
当時はネットも、家で楽しめるPCやTVのゲームなんてものもないから、
本読みは、立派な娯楽や趣味と言えるもんだった。

 

本好きといえば、今は死語かもしれない「文学少女」なんてものを、

ついつい、思い出しちゃうけど(笑)
アニメのテンプレのキャラクターで、
図書館にいつもいる、お下げ髪か、短髪で、
いつも「リルケの詩集」を小脇にかかえているような、
眼鏡っ子のおとなしいちょっと知的な女子生徒、

なんていうのが、よく出てくるもんだが、
そんなタイプ、うちの田舎の学校にいたっけかな?と思うと、
そんなもの、ぜんぜん生息していなかったような気がする。
だが、そもそも自分は、「図書室」なんかには、

授業のサボりの時以外は、
ほとんど足を運んでいなかったので、
そんな子に遭遇できるはずもなかった‥残念(笑)



でも、今になってみて太宰治とか、その辺の本を、
あえて読みたいかと聞かれたら、
もう、すっかり歳を取って、スマホの小さい文字も見えづらくなると、
文庫本を開いてみる気も起きないし、
普通にまじめな小説や純文学みないなもんを読む気が、まるで起きない。
特に長いロシアの小説や、歴史ものの本なんて、次のページに行ったら、
前のページに出てきた人の名前を、もう覚えていない自信がある(笑)
年取って、残りの人生をどういう風に、しのいでいったらいいのか?
なんてことで、頭がいっぱいなので、
今更、人の内面を掘り下げたような本を読むのは、
もう、心が、そういうものに、ついていけない感じ。



むしろそんな時は、まじめな『読書』なんて、するよりは、
日本の面白いアニメを、のんびりと、ダラけて観ていた方が、
気分的にも楽で、リラックス出来る(笑)
最近、体調をくずして、釣りにもいけず、
仕事も好調とはいえず、気持ち的にダウン傾向だったので、
この前の3連休には、古~いアニメの『頭文字(イニシャル)D』の、
主なエピソードを、ほぼ最初から最後までみて過ごした(笑)
これは、群馬の高校生が、
オヤジの車である、旧式で非力なトヨタのAE-86という車で、
公式のレースではない、草の根の峠のストリートという舞台だけでの勝負で、
どこまで他の新しい車と戦えるかというシンプルな話なのだが、
何回か見ても、飽きないし、なんとなく気分が晴れる。
特にセカンドシーズンの話は、歯がゆい青春の話で、
ちょっと落ち込み加減の時は、なんだかいつもフルで観てしまう。

 

 


自分はもうずっと前から、車を運転する機会がなくなってしまい、
坂道発進や、縦列駐車どころか、マニュアル車の運転も、もう怪しいような、
ほぼペーパードライバーと化してしまっているが、
免許がない人が観てもたぶん楽しいアニメ。
人の内面とかを深くえぐったようなものでなくて
主人公がある目的にむかって、
ただひたすらなんかやってる単純なものがいい。
 

たしか武田泰淳が、『すべての物事に、多情多恨であれ』とかいう事を、
言っていた覚えがあるけど、

男の人生なんてそんなもので、
独楽みたいに何か回転してないとダメなところがあって、
落ち着いた『悟り』なんてものは、ごくたまにしか来ないのだから、
お釈迦さまの手のひらの上からは、逃げられない、とすれば、

それで、あきらめて自分を捨ててしまい、煩悩を否定して、断捨離して、

ひとり達観するようなことを目指さずよりは、
むしろ、お釈迦様の手のひらの中で、

お釈迦様の許してくれる範囲で(笑)
ただ自分の好きなことに、人に迷惑をかけない範囲で、
執着してひとつのことにジタバタし続けたほうが、
逆に、そういう人だけに、個人的な何かが見えてきて、

そのジタバタの後で、

まあ自分としては、やりたいようにやったのだから‥という

せいぜいあきらめの気持ちがつく、

ということになるのじゃないだろうか?(笑)

たぶん伊東静雄という人が
『若い頃には、自分の心の中の暗黒部との格闘が常にあった。』
みたいなことを言っていたが、
自分はもうとっくの数十年くらいの前から、
そんな気高い戦いを目指すことはできなくて、
また老年の理想である、余裕をもって上から達観するようなことには、
あまりにも程遠くて、
今も、ひたすら日常の細かい雑事に追われて、日々が過ぎるばかり(笑)
若い頃に、好き勝手やって、気ままに過ごした人間の、老年なんて、
実に、そんなもん、ですわな。
身から出たサビ、というものを、見事に実践しているわけで(爆)

でも、太宰治の短編で、
「フォスフォレッセンス」というのがあって、
これだけは、なぜか、いまだに、印象に残っていて、
ヒマがあったら、読み返してみようかな、という気もしたりする。

(今でも十分ヒマですがww)

ネタバレしてしまうが、その内容は、
太宰治の小説にいつもありがちな、なんだかこの世に嫌気がさした人が、
この世以外のパラレルワールドや、彼岸にあこがれるような内容で、
『今のこの世界は間違っていて、それに気づかない他人は全部バカ』
と言ってしまうような、今の冷静な賢い若い人から見れば、
ヘタすれば『厨二病』的な扱いを受けそうな短編なのだが、
それでも、なんだか妙に、印象に残っている。
そしてちょっと不思議なのは、
「フォスフォレッセンス」という言葉は、
ふつう「燐光」を意味するみたいだけど、
この短編では、「花の名前」として書かれていて、
いま、ネットで探してみても、
「フォスフォレッセンス」という名前の花が、ほとんど見当たらず、
どれがその花なのか、自分では、いまだ特定できていない。
いま自分が分かる範囲では、
下のイラストがおそらく、その花みたいなのだが、
確かじゃないけど…。
なんだかやわらかく清楚な感じの花。

 

しかし、今ネットに出ている様々な見解では、

その名前で呼ばれる花は、現状、存在せず、

主人公が想像する架空の花を、

フォスフォレッセンス、と呼んだだけ、

という意見が有力みたい。

まあ、その方が、

あるかどうかも分からない彼岸や、パラレルワールドに、

思いはせる主人公としては、

その、あるかどうかも分からない世界に、

今の現実に存在して、名前もある花を、そこに置くのではなく、

そこで咲いているかもしれない、架空の花を、

そこにあえて思い描くことの方が、

ある意味、つじつまがあっている、と言えるかも…

 

ホントは、肉体とか、精神が燃え尽きるときに生まれる、

最後の燐光みたいなものを、架空の花に例えて、

フォスフォレッセンス、と呼びたいだけだったのかも。

それなら、自分も、

今の現実世界では、まず、ないと思われる
とあるパラレルワールドの図書館に、いつも咲いている、

お下げ髪か、短髪で、
「‥の詩集」を小脇にかかえているような、
眼鏡っ子のおとなしいちょっと知的な女子生徒のような花を、

フォスフォレッセンスと呼ぼうかな?(爆)

自分がむかし若い頃、大学に籍だけあって、
講義にはほとんど行かず、ニートみたいな状態で、
勉強もせず、バイトだけしてるか、友人とイカサマバンドとかをやっていた頃、
自分が気まぐれでピアノ用に作った習作に、
この「フォスフォレッセンス」から題名だけを拝借してつけた曲があって、
先日、久々に、その楽譜を引っ張り出してきて、弾いてみた。
曲の内容は、その短編とはまったく無関係で、
ただ語呂がいい感じだったので、題名にお借りしただけだった。
そして、その曲を試しに弾いているうちに、
曲がいつもの出来損ないな造りだったので、
曲の中間の部分を作り直すことになった。
この曲は、自分が高校時代から、曲作りを始めて、
それまで数曲ガラクタをこしらえているうち、
まあ、聴けるような曲になってきたかなあ、というような、
自分にとっては「作品番号1」みたいなものだったのだが、
それをいちいちやり直すというのは、
自分が最初の1番から、コケていたということだけど(笑)
音楽は、現実生活の過去と違って、
過去のやり直し、リスタートがでいくらでもできるのだから、
納得できないなら、何度でも作り直せばいいのだと思う。
39年前に、いい加減に作った曲の作り直しを、
いまさら60歳になって、やってるのが、
どんだけヒマなヤツなんだよ、と笑えるが、
ある意味、60歳になって、はじめて作品1が
とりあえずやっと形になってきたとも言いえるわけで、
やっぱり人生短いようで、
でも、なんだか、長いような‥ww

でも、やっぱり、
いまさら、自分のこころの中の、暗黒部との格闘なんて、
なかなかちょっと、キビチイかも(笑)
休日には、川に行って、せいぜい小魚を釣って楽しむので、
精一杯ですわな‥(爆)

そして、その河原に
「フォスフォレッセンス」という花が、
ひっそりと咲いているのを、
一度は見てみたい気がするw