組織神学序論の授業にて、
「ルターにおける神学研究のの方法としての「祈り・黙想・試練」について/著者竹原創一氏」
この論文の一部が紹介された。そのなかに音楽的な記述があったのは想定外だった。
しかし誰もがそれを「音楽的」と思うかは分からない。
『詩編3編3節の「セラ」の解釈において、詩編歌の【感動の極みが無言になる】こと、霊による最高の語りが【最深の沈黙】となることが述べられている。同じことは詩編第4編5節の「ドゥマー」における【悔い改めの告白と沈黙の重なり】、詩編第9編17節の「ヒガヨン・セラ」における【黙想と感動の高まりの結びつき】という解釈にも表されている。
「セラ」「ドゥマー」「ヒガヨン・セラ」について、ググってみればこう言う解釈が沢山出てくる。でも今まで調べてみようと思い立ったこともなかったのは、私の出会った牧師にこの「セラ」に対して単純に質問しても「意味はあるのですが、あまり気にしなくていいのです」と答えた方々が多数だったためだと思う。
「こういう風に考えてみたことありませんでした」と発言したら、「楽譜に現すと休符よね」と隣のご婦人が答えてくれた。
「楽譜に現すと、確かに休符記号かもしれない。」
でも例えば音と音の間にある時間差のなかに美しい和音を感じることはないだろうか?
叩かれた鍵盤の反響音の中に時空に消えていく儚い光の雫を感じることはないだろうか?
それらのことは楽譜には記載されていない。
二分休符や四分休符のようにリズムをただ記号にしている(直線軸での時間のリズム)のではない、
心臓の高鳴りであったり、息が止まりそうな硬直であったりするそれは直線状の点ではなくて深みとか高まりといった立体的な時空の出現をともなって現れる一種の爆発なのだと思う
。
【最深の沈黙】【悔い改めの告白と沈黙の重なり】【黙想と感動の高まりの結びつき】には音では表現しえない無音で静寂、緊迫感、恐怖の波間から突出して主の憐みに陥る静かな激情が、祈りの言葉と言葉の間の隙間で音もなく爆発するのだと、
ほんの一瞬私は我を忘れてそのことに想い巡らせた。
そんな私にはお構いなしに授業は進んでいく。
これが人の話を聞けない私の色なんだよねwww
中学校の時の担任の先生に「お前は時々頭の中が空白にならないか?」と聞かれたことがある。
その場にいた母は私が「自閉症的である」と認定してしまったw
なのでそれから私は半端もんな生き方を選択せざるを得なかった。
色々失ったり手に入れられなかったと思う。
それも大きな主の恵みで、今日私は58年目の誕生日を迎えた。
とても幸せな朝を迎え、食材の恵みを受け取り(トドックだよw)、
歯医者に行って治療のあとに「おめでとうございます」って言いながらプレゼントを頂いた。
仕事を始める前に祈り、学んだことを黙想して、文字におこし、
冷たい水を飲みながら、映画を観ながら仕事したりって、
なんならおやつもあるしw、
思ったより早くに息子が出社したので居眠りは出来ないな~とか考えながら時間をすごしている。
しばらく会っていない娘の事や、
いつか別れる時のくる親のこととか、
そこに付随して思い起こされる苦い思いも、
眠れない夜は眠れない時を楽しく苦なくすごしている。
立ち上がるたびに痛い節々も生きていることの証で頑張ってきたことのご褒美だと思っている。
変な病気もwww病んで幸いだと思える。
きっとすべて私自身が神に愛され生きている証拠なのだと実感する。
ちょっと困るのは教会の集まりで「祈って欲しいことはありますか?」って聞かれること、
これはいつでも同じなのだけれど。
誕生日何欲しい?って聞かれて、何も思いつかない気分と同じ。
イエス様がご自分の事を必死に祈ったのは、
ゲッセマセでのことだと思う。
きっと私の時がまだ来ないので、こんな状態なんだろうな…
Hallelujah✽+†+✽――✽+†+✽――✽+†+✽