聞かれる祈り | I love ホットケーキ☆

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夢の中に訪ねて来たら、
一緒にご飯を、食べよう。
「美味しいね。」って言おう。
「愛してる」って言おう。
「ありがとう」って伝えよう。

祈りは聞かれると確信した時から、私の祈りは以前とは違ったものになっていた。気がつくと祈り始めている。食器を洗いながら、掃除機をかけながら、公園のベンチで、地下鉄のシートに座って・・・。祈れば祈るほど御言葉が降り注いだ。映画を観ていても、お友達とお茶をしている時、恋人と歩いている時も。こんなにも神に祈る(話す)ことが沢山あったなんて、それまで気がつかなかったのだ。愛(神)のあるところには、必ず尽きることのない言葉(ロゴス)がある。
あるとき親友を亡くした友人が神の御旨とは何かを尋ねてきた。同じ日また別の友人から電話があって、ご主人の救いのために祈ってほしいと頼まれた。祈り始めた私は二人のためにどんな証も出来ない自分に、何も注しだすものの無い自分の無力さを感じた。どれほど神の愛のうちに自分自身が満ち足りていても、他者に対しては果てしなく私は無力だった・・・それを不信仰と言われても仕方が無い。金や銀のように光り輝く言葉の技は私には無かった、あるのはイエスを愛する想いと、父なる神に慈しんで頂いてるこの身と魂のみ。祈りの中で捧げられるものは、私にとって只それしかないことを思った。二人のために祈り、亡くなった方のご家族のために祈るうち、「私は私の命を取り上げられても構わない。」と、つい、口に出してしまっていた。一度も礼拝に来た事のない二人も、私の告別式にはきっと来るだろうと予想してのことだった。前に結婚式を挙げたとき、披露宴ではなく式にこそ多くの知人を招きなさいと、牧師に言われたことがあった。招かれた人の中には教会に足を踏み入れたことのない人も大勢いるでしょうから、と。結婚式なら相手がいないと出来ないが、告別式なら・・・滑稽な祈りだと思われるだろうか。
ただ、私は“つい”そう祈ってしまったのである。そうしてもう一つの思いが私の脳裏をよぎった。「私を頼りきっている家族がこの世にいるのに、神がこの私の命を取られるはずがない。」では・・・今の祈りは、いったい単なる建て前の祈りではないだろうか?私は自分の浅はかさ軽薄さに情けない想いだった。人の命がいつ取られるかは、神の御心による。それも妙なる御計画の一つなのだから、全信頼を傾けて祈るべきだった。たとえ私一人を頼って生きている家族がこの世に残されても、神が如何様にもして下さるのだ。残される者のことさえも、神に信頼を寄せるべきだった。
私の心に一瞬湧き上がった不安と迷いは、私の祈りをもう一度燃え上がらせた。「全てを捧げますから、どうか、あなたの御心のままにして下さい。」私は苦しみ中にも、何時か実現されるはずの、神の栄光を垣間見て、その生活の中に喜びを見出す術を身につけることが出来るようになった。