原子力爆弾は
エノラ・ゲイから投下
43秒後に
地上600mの上空で炸裂し
1000000℃を超える火球となり
爆心地周辺を
3000~4000℃で焼き尽くした
これが
1945年8月6日(月)8時15分
広島の身の上に起きたこと
種も人種も国籍も年齢も差別なく
多くの命が生きたまま焼かれ
77年後の今も
放射線障害を与え続けている
この核兵器で
誰が何を抑止するというの?
これは
6日の中国新聞に
意見広告として掲載されていた文面
爆弾で
けがを負った人の看病をするも
医薬品は何もない状態で
できることと言えば
食用油を塗ったガーゼをあてることだけ
そのガーゼを交換する度に
肉片が剥がれ落ちる
看病にあたっていた人は
その時の猛烈なにおいから
何度も倒れた
みんなで支えあい
頑張っていても
ケガがひどく
痛みに耐えられない人が
夜になると川へと飛び込み命を絶つ
「真夜中に、堤防から、苦痛に耐えかねて、
死を急ぐ患者の投身があったのもたびたびであった
鈍い水音を聞くたびに、
また飛び込んだねと私たちは無感覚につぶやいた」
当時 市内の医師約300人のうち
罹災者が8~9割に上るため
救護活動が進まない状況
火葬場は
遺体だらけで順番を待つ長い列
業を煮やした人は
穴を掘り長時間かけて
自分の手で火葬した
先日 お亡くなりになられた
世界的デザイナーの三宅一生氏も7歳の時に
この原爆で被爆したひとり
彼が
デザイナーを志すきっかけとなったのが
高校生の頃に
通学で通っていた
イサム・ノグチ氏 デザイン
平和大橋
西平和大橋
丹下健三氏設計の原爆ドーム
これらを見て
感銘を受けたのが始まりらしい
広島平和記念公園内
慰霊碑
奥に見えるのが
原爆ドーム
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
右手で乳飲み子を抱え
左手で幼児を背負おうとしながら
前かがみ姿勢で生き抜く母の姿を現した像
お写真は
全て今朝撮影したもの
出勤途中に
夫が撮影して
送ってくれた
終戦後に残ったのは
悲惨な現実だけ
同じ過ちは繰り返してはいけない
いつまでも
今のままの美しい広島でありますように
日本が
2度と戦争に参加しませんように
ウクライナとロシアの戦争が
1日でも早く終戦を迎えますように