
今、スクールソーシャルワーカーの方が書いた本を読んでいます。
主に、そのご家庭の貧困が原因の、不登校児童生徒についてのお話です。
おそらく、なぜこの子は学校へ行かないのだろうかと考えることはない親御さんたちです。
それは生きるのに精一杯で余裕がないからという方もいれば、ネグレクトという方もいて。
不登校にも色々あるのは知っていましたが、実際の事例を読んでいると、親ガチャといいたくなる気持ちが理解できます。
刹那的に生きることしか知らず、ちょっと先の近い未来のことでさえ考えられない環境に生きる子どもたち。
不登校に対し世間がある意味寛容になったことの弊害を、こういう家庭には感じます。

私は確かに娘の、園児からの登園しぶり、登校しぶり、五月雨登校、、、、それらから毎回気づきを得たり、自分自身の固定概念を壊すことに繋がってきましたが
子がそういうことになる親だけが、自分を見直す必要があるわけでなく、子がそういうことにならない親も、自分自身を見直す部分があると思います。
人間、たいがいがそうでしょう。
私自身は娘のおかげで、あらためて知る世界が広がりました。
それはある意味、世の中は苦しんでいる人で埋め尽くされていることを知ったようなものです。それで感じることがたくさんあり、仏教を独学で学んだりしました。
子が不登校になり、そこから学びを得る方もいれば、仲間は得たけど学びには届かず、お互いにそこに留め合ったり。。
だから子が不登校になったのは、他の人生で起きる出来事と同じように、魂を鍛えるためのひとつのアスレチックのようなアクティビティだと思うのです。
アスレチックへの取り組み方は人それぞれのように、このことへも人それぞれ。そしてそこから得られるものも、人それぞれ。
ただ、そこにいる子どもたちには、助けが必要だと感じています。つまりスクールソーシャルワーカーという立場の方の重要性は高いと思うのです。

人になる教育を与えられておらず、さらに、誰か特定の人からの愛情を与えられてない子に救いの手を差し伸べることは
日本の将来のためにではなく、その子のために必要だと感じます。