大人の飲み屋では煙草を吸わないと大人と認められない風潮がある。それは主に貫禄云々の話なのだけれど、実際には間がもたない部分を煙草に委ねるという意味合いが強いからだ。
僕は別に大人に対しての憧れはない。それは性的な意味合いを含むが、それ以上に空気を支配するという意味においての部分が強い。
煙の先を見つめながら彼女はため息を吐いたのだろう。紫煙がゆらりと中空で帰化する瞬間を見つめるたびに、何を思うのだろう。僕には快楽としての煙草の意味合いしかわからない。くゆらせた煙、また火元の力強い紅の灯火、人差し指と中指の間で、静と動の瞬間が一つのセットになっている。
この瞬間は現実の中の浸透性を含んだまやかしである。苦味がほとばしる一瞬のためらいさえ、酒で麻痺した脳に栄養を与えるような心持になる。それだけだ。
そうして彼女は白い息を吐き出しながら次の言葉を探して沈黙に耽る。狸と狐の化かしあい。いかにして、間を繋ぐか。それは彼女だけじゃなく、僕にも課せられた使命なのかもしれない。
だから夜の飲み屋で否定することはナンセンス以外に感じられる。
それが共有された空間における暗黙の了解のように。
僕は何を思う。
彼女は何を思う。
彼女が純白の下着を身に着けていたらいいなと思う。それは希望的観測のうちにすぎないが、真実と幻想の区切りだと思うのは、静脈に浸透した煙草の煙の所為なのだろう。僕は狂ったように明るく振舞う。彼女を傷つけないように。それがフェミニストとしての礼儀なのか、パンツみせてくんねーかなー的野心なのかはいささか不明であるが、とにかく嬌声を高らかにするのだ。それが唯一の免罪符であるかのように錯覚するには十分な所作だからだ。
とはいえ、金を持たない人間は最初から参加できないのである。そのステータスとしての煙草を、僕は帰途にだけ吸う。そして、「パンツ見えなかったな・・・」と呟くのだ。このルサンチマンの吐露こそ、僕を大人たらしめることの難儀さを物語っているように思える。