音はどこにあるのか? |  ヒマジンノ国

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フランスの作曲家、ピエール・ブーレーズ(1925-2016)は最晩年に20世紀における、クラシック音楽ベスト10を発表しています。その内容は以下の通り。

 

エドガー・ヴァレーズ「アメリカ」、アルバン・ベルグ「管弦楽のための3つの小品」、イーゴリ・ストラヴィンスキー「春の祭典」、ベラ・バルトーク「管弦楽とチェレスタのための音楽」、アントン・ウェーベルン「管弦楽のための6つの小品」、ルチアーノ・ベリオ「シンフォニア」、カールハインツ・シュトックハウゼン「グルッペン」、グスタフ・マーラー「交響曲6番」、アルノルト・シェーンベルグ「モノドラマ、期待」、ピエール・ブーレーズ「レポン」。

 

ブーレーズの「レポン」だけではなく、例えばベリオの「シンフォニア」、あるいはシュトックハウゼンの「グルッペン」でもよいのですが、これをはじめから最後まで集中して、聴き通すことができる人が、世間に一体どれぐらいいるのでしょうか?

 

Berio - Sinfonia | François-Xavier Roth | SWR Symphonieorchester

 

↑、ベリオ、「シンフォニア」。

 

 

↑、ピエール・ブーレーズが自ら、「20世紀の名曲の1つ」という、彼が作曲したレポン。演奏には特別な環境が必要で、普通のコンサートホールでは演奏できません。仮に通常のホールで演奏したとしても、内容が難解すぎて、演奏会の基礎演目にはならないでしょう。

 

20世紀後半に発達した「現代音楽」と呼ばれる作品に、一定数の理解者がいるとはいえ、しかしそれはクラシック愛好家の中でも非常に少なく、それを更に世間一般の、音楽愛好者の絶対数から見れば、ほとんど「いない」も同然でしょう。

 

個人的な話をすれば、自分もまた「現代音楽」を好まない者の1人です(厳密な意味での現代音楽といえば、正確に「これ」と明言するのは無理があります。しかし上にブーレーズが挙げたベスト10のように、一応コンサートの演奏会に乗せることを目的とした作品とします。ミニマル・ミュージックなどは除外しています)。

 

指揮者のマウチェリが彼の著作で述べている「現代音楽」の部分から抜き出してみます。

 

<これまで述べたように大戦後、シェーンベルクが必ずしも前作より複雑な楽曲を書かなくなると、彼はストラヴィンスキー同様、ヨーロッパの前衛からたちまち見放され、音楽進化論の主導者ブーレーズから破門が宣言された。シェーンベルクは気落ちして元気がなくなり、ハリウッドでスターたちに囲まれて過ごした。前述のとおり、欧州での戦争が終わった直後(1945年9月15日)に亡くなるシェーンベルクの弟子アントン・ウェーベルン――禁欲的な作風で知られ、きわめて短く、緻密に組み立てられた曲を書いた――が、シェーンベルクに代わってセリー音楽や無調音楽の作曲家たちに創造的刺激を与える存在となった。それまで比較的目立たない存在であったウェーベルンが、その後半世紀にわたり、シリアスな音楽のゴッドファーザーになったのである。

 

「現代音楽」として認められるのは、12音に基づくセリー音楽だけだったため、20世紀の最後の頃までダーウィン=ヘーゲル・モデルが音楽の評価に用いられた。つまり、どんどん複雑化する音楽だけが価値を認められた。そうした音楽の多くは、数式を用いて作られ、高音、デュナーミク、リズム、音色をコンピューターがコントロールした。>(ジョン・マウチェリ著「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」松村哲哉訳から)

 

「現代音楽」とは、無調から発展したセリーに加え、近代の科学的知見を取り入れた音楽とでもいえば良いのでしょうか?他にも西洋音楽は常に進化を続けてきたという信念から、ダーウィンの進化論なども加えられているようです。

 

そのおかげというべきか、絶対音楽が「音楽的な自己目的性」を中心に作られているということで、「仮に」人間がいなくとも「音楽のみ」が自律的に存在しているかのような作品ばかりとなってきました。

 

ですがこれらの作品は、人間の持つ「感覚」や「心の動き」を無視した音楽ばかりになり、一般大衆には意味不明の音楽ばかりとなりました。確かに電子音楽とクラシック音楽との繋がりを示す、ブーレーズの「レポン」など、専門家や愛好家からは、評価はあるでしょう。またこうした地道な一見意味のないような音楽から、後の新しい知見が発見されることもあると思います。

 

しかしこれらの音楽を「コンサート用の作品」といわれると、いささか引っかかるわけです。はっきりいってこれらはあくまで「研究用の」音楽であり、「コンサート用」というものからは区別すべきだと、個人的には思います。

 

また音楽が「科学」であるかどうかも微妙なところで、哲学の現象学などの立場からいえば「科学還元主義」は平均的な人間にとって見ると、一種のピーキーな考え方の1つにすぎず、これらを「真理」として見ること自体、常識の範囲から外れていきます(普段の生活の中で人々は「水を飲む」とはいいますが、「H2Oを飲む」とはいいません)。

 

実際「音」が何かといえば、空気の振動なわけで、これが「音」になっているかどうかは、はっきりと分かっていないわけです。何をいってるんだ?と思う人もいるでしょうが、人間を含む「動物」などは耳とその中に空気の振動を「音」として解釈する構造を持っているから、空気振動を音として認識するわけです。人間でいえば蝸牛管のようなものがあるからともいえます。 

 

つまり本来は空気が振動しているだけで、音などない可能性もあるものが、われわれの持つ体の器官のおかげで勝手に「音」として認識されている可能性です。

 

さて、このような問題について一定の意見を発表した指揮者がいました。それが有名なエルネスト・アンセルメで「人間の意識における音楽の基礎」という思想的書物です。

 

彼の発言の一部をある書物から引用していきます。

 

<われわれが音と音の間に音程を知覚するのは、音自体が空間のある高さに置かれたある音響位置として知覚されるからです。大体、音は耳に対してしか高さを持ちません。外界においては、音は空気の波動によって耳につたえられますが、その波動は波長によって、そこで耳にとっては、いわゆる振動数という毎秒間の波動の数によってそれぞれ特徴づけられています。したがって、音が、われわれにとって高いあるいは低い、鋭いあるいは重いというのは、もっぱら音がわれわれの内耳を通して知覚されるからです。

 

かたつむり管、あるいは蝸牛殻と呼ばれるこの内耳の器官は、らせん状にうずを巻いている管です。そして、音が聴覚意識にとって高さで呼ばれるのは、音の振動数がかたつむり管の軸に比例してある高さにおけるこの管の感性を目覚めさせるからです。要するに、聴覚意識にとって、異なる振動数の音の間に高さの相違や音程が存在するのは、それらの音がかたつむり管の中で種々の高さのレベルで知覚されるからなのです。

 

一連の異なった高さの音の知覚は、音の種々の振動数に対応するかたつむり管のそれぞれの位置を連結する電波を実際にかたつむり管の中で惹き起こします。各々の振動数比は蝸牛殻において、音程を示すロガリズム(㏒関数、つまり対数比)によって表され、振動数の比の責にロガリズムの和、すなわち音程の和が相応します。

 

したがって、音の連続をメロディーという継続的な音響線に変えるのはわれわれの聴覚なのです。この世界においては、すなわち音響現象においては、音は高さを持ちません。音と音の間に音程はないのです。もしあるとすれば時間の間隔だけであり、したがってメロディーは存在しません。高さ、音程、メロディーは、すべてわれわれの知覚の仕方に由来する、かたつむり管現象なのです。私は特にこの点を強調しなければなりません。

 

というのは、大多数の人々が、メロディーを描くのは音であり、そのメロディーを流星の跡を知覚するように知覚するのだと思っているからです。それは、知覚の現象を理解しようとするのなら、まず第1に一掃すべき錯覚です。実際、演奏家は、ある時間感覚と、同時に異なった高さの2音間の音程をもって連続する音を出します。そして、そのロガリズム的な知覚によって、2音間の相違を2つの空間的な音の位置の間の音程とし、その音程によってお互いの位置を連結し、その連続から1つのメロディーを作るのは、聴衆と器楽演奏者の聴覚です。

 

ですから、メロディーは決して音響現象ではなく、意識現象なのです。それは時間における音の連続から聴覚がうけとるイメージであり、われわれが、音響現象の上に投影するイメージなのです。>(クロード・ピケ著「アンセルメとの会話」遠山一行、寺山由美子訳から)

 

話を少し端折りますが、アンセルメは我々が感じ取る「音」の性質は、知的な側面(数学との関連性など)があると同時に、人間独自の主観的な意識現象としてみています。

 

つまり超訳していうのなら、「音」は人間を含む動物などが持つ器官によってもたらされる、空気振動に関する独自の解釈であり、物理的真理とは異なっている可能性があるということです(そういう側面が存在しているということ)。

 

 

↑、クロード・ピケ著、「アンセルメとの対話」。「人間の意識における音楽の基礎」の日本語訳がないのでこの本で代用します。評論家の故遠山一行氏が「人間の意識における音楽の基礎」の全訳を行うつもりでいたようですが頓挫。この著作の巻末にはその抄訳があるのでそれで代用します。ドビュッシーやラヴェル、ファリャ、あるいはストラヴィンスキーとの関係をみてみても、なぜエルネスト・アンセルメ(1883-1969)がこれら著名な作曲家の初演などに関わっていたのか?それが良く分かる内容かと思います。彼は単なる一演奏家ではなく、思想的な深い背景を持った、一流の指揮者であったことが感じられる著作かと思います。

 

ベートーヴェン・イヤー |  ヒマジンノ国

 

↑、アンセルメの過去記事。

 

それ故、アンセルメの思想からは外れるかもしれませんが、音の造形は「人間(生物)が聴くことによって生まれる、心理的な思い込み」である可能性があります。

 

ではこのような意識にとって、無調などの基礎とした現代音楽はどのように響くのか?

 

以前も別記事で引用しましたが、今回もまた引用します。

 

<国際前衛音楽界での種々な動き、新しい音楽のための広報活動や、多くの録音にもかかわらず、新しい手法による音楽が、どれひとつを取っても、全世界のどの国の交響楽団、歌劇場、コンサート・ホールのレパートリーとして定着していないことは、驚くべきことである。その理由は、コミュニケーションの崩壊ではないか、とされている。指揮者エルネスト・アンセルメが、自著『人間的意識内の音楽に基礎』(1961年)の中で引きだした結論ーー「新しい音楽が、正常な思考過程と聴覚的経験にとって、あまりに異質であるのは、間違った美学に基づいているからではないか」というのは、多分、正鵠を射ているだろう。>(ハロルド・C・ショーンバーグ著「大作曲家の生涯」亀井旭、玉木裕訳から)

 

これは1970年に発表された米国の音楽評論家、ハロルド・C・ショーンバーグの著作からの引用ですが、この著作から半世紀たった現代でもこの意見は充分にヴィヴィッドだと思います。

 

ブーレーズのレポンを聴いていても、自分にとってみると、正直最後まで聴くのは中々の修行です。「音楽的な聴き方」を無視をして、人間の心理的な解釈で、この音楽を聴くというのなら、初めから終わりまでサスペンス映画か何かの、不安を煽るような音楽が連続するだけで、聴後の満足感はまずないし、疲労の方が多いと思います。

 

上に書いた、現代音楽のような「聴き手の人間がいなくとも存在するような音楽」は、「音」が生物由来である可能性を退けようとしているように見えます。ところがこれらの音楽を人間の心理的側面で見てみると、結局、作曲家が「知的に見られたい」という心理を表した音楽である可能性が出てもいるように思え、あまり良い気持ちがしません。

 

ブーレーズらを始めとする、不協和音に満ちた「音楽」を聴くとき、それはあまりにも人間の心理に無関心であると同時に、自分たちが「偉く見られたい」というべき、作曲家の心理を感じ取るのは僕だけではないと思います。

 

やはり、人間が作り、人間が聴く以上、人間生活の常識を無視した音楽を、一般人が聴くには 、相当の困難が伴うようです。