フョードル・ドストエフスキー2 |  ヒマジンノ国

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死の家の記録、工藤精一郎訳。

 

(↑、ドストエフスキーとしては珍しく客観的描写に終始した作品で、監獄に入れられた犯罪者の様子がリアルに描かれている。)

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社会主運動の観念的な傾向を好むということは、当時のドストエフスキー自身、現実的に物事を見ていなった部分があることを意味する。

 

何と、ペトラシェフ事件の首謀者達の死刑宣告は実は茶番であって、皇帝の企んだ、当時の社会主義運動家たちへのみせしめであった。そのおかげで、ドストエフスキー達には奇跡的に恩赦がおり、彼らは一転シベリアへ抑留されることとなった。

 

そして、その経験をもとに描かれた小説が、この「死の家の記録」である。「死の家」とは彼が収監されたオムスク監獄を指し、そこで生きる囚人たちの姿や、作家自身の体験を客観的に描いた作品である。


ドストエフスキーは、1850年から54年まで彼はオムスク監獄で囚人として過ごし、その後、1859年まで兵役に就いた。

 

こうした経緯もあって、この9年間、彼は文学者として一言も発することがなかった。しかし、生命力の強い彼は、この逆境を利用し、9年間の内に肉体を鍛錬し、気力を蓄えていたのだ。また同時に、この監獄で彼はロシアの「現実」に触れ、人間の本当の姿を自ら発見することとなっていくのだった。それは観念的なドストエフスキーにとってみれば、一種の救いともいえた。

 

自己の感情を排し、「客観的に」に書かれたこの「死の家の記録」こそは、ドストエフスキーが「貧しき人々」以来、文学者として再び注目を浴びた作品となる。

 

↑)オムスク監獄

 

この小説はドストエフスキーには珍しい、ロシア・リアリズムの書法で描かれた作品であり、彼が4年間、監獄で見てきた囚人たちとその内部の様子が映像で映し出されるように描かれており、その描写はまるでトルストイを思わせる。

 

トルストイはこの作品を読んで絶賛をした。

 

<トルストイも『死の家の記録』をプーシキンを含めた新しいロシア文学の最高傑作と認め、「彼のさりげなく書かれた一ページは現代の作家たちの数巻にも匹敵する。私は先日『復活』のために『死の家の記録』を読み返した。なんというすばらしい作品であろう。」と語っている。

 

『死の家の記録』はドストエフスキーにとっていかなる意味を持っていたか。それは自分の過去の生活の厳しい再検討と、民衆との極端な接触による信念蘇生の場であった。「私の周囲にいた人々は、ベリンスキーの信念によると、犯罪を遂行せずにいられなかった人々であり、したがって、ただほかの者より不幸な人間だったにすぎないのである。わたしは知っているが、全てのロシアの民衆は、やはりわたしたちを不幸な人間と呼んでいる。この呼び名を幾度も幾度も、大勢の人の口から聞いた。しかしそこには何かしら別のもの、ベリンスキーが言ったものとも違えば、このごろわが国の陪審員たちが下す判決文に見受けられるのとも、まったく違った何ものかがひびいていた。四年の監獄生活は、思えば長い学校であった。わたしは確信をつかむ時日をあたえられられたのだ・・・・・・」ドストエフスキーはシベリアの徒刑囚についてこう語り、信念蘇生の歴史を次のように述べている。

 

「その気持ち(社会主義信念)は永くつづいた。流刑の数年間も、苦悩もわれわれの意志を砕きはしなかった。それどころか、われわれは何物にもひしがれることなく、その信念は義務遂行の意志によって、われわれの精神を支持してくれた。しかし何かしらある別なものがわれわれの見解、われわれの信念、われわれの心情を一変さしたのである。このあるものというのは民衆との端的な接触であった。共通の不幸の中における彼らとの同胞としての結合であった。自分も彼らと同じような人間になった、同等のものになった、いな、むしろ彼らの最も低い段階と平均されてしまった、という観念である。繰り返して言うが、これは一朝一夕で起こったことでなく、きわめて長い時日を経て、漸次に行われたことである」>(死の家の記録、解説から。新潮文庫、工藤精一郎)

 

↑)若き日のドストエフスキー。

 

彼はこの監獄生活の中で、自分が体験した社会主義運動がどれほど「現実」を見据えておらず、また同時に残酷なものであるかということを、囚人たちと触れ合うことによって自覚したのである。