フョードル・ドストエフスキー3 |  ヒマジンノ国

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地下室の手記、江川卓訳。

 

(↑、流刑を終え、再び文学者として生きることを決意したドストエフスキーの作品。内容はそれほど長くなく、デビュー作の「貧しき人びと」を思わせるところがある。)

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ドストエフスキーが世界的に評価されるのは、1866年以降に書かれた「罪と罰」をはじめとして、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」という5大長編と呼ばれる作品群によっている。

 

これらの作品は、人間の愛への欲求が、一般的な世俗的生活の中で歪められ、変容する中で、本来の愛を求めて奔走する者らが陥る、自己欺瞞のレトリックから、いかに抜け出すかを主題としており、それは「社会主義運動」に身を捧げ、そして監獄で囚人となったドストエフスキーの実感があってこそできあがった作品たちであった。

 

ドストエフスキーの描く人物の多くは、性格が歪んでおり、自意識過剰な人物ばかりである。これは当然この作家本人の性格であって、彼はそれを囚人として、あるいは兵役を得ることによって、実際の「現実」に触れることによって、克服していったのである。いいかえれば、その「現実」に触れることがなかったのであれば、彼は生涯観念的なユートピア論に浸っていたに違いない。

 

そして、長編の「死の家の記録」に続き描かれたのが、ドストエフスキーの得意な、自意識過剰の人間を主人公にして書いた、「地下室の手記」である。主人公「わたし」によって描かれるこの個人の独白は、何の変哲もない惨めな40歳の1人暮らしの男性の、「地下室」の孤独に閉じ込められたかのような、心情である。処女作の「貧しき人々」の、主人公であったジェーヴシキンの内心を、深くえぐり出したかのような内容であり、同時に「罪と罰」のラスコーリニコフの劣等感をそのまま形にしたような内容である。

 

その後、彼はより本格的な作家活動を始め、1866年の「ロシア報知」に新しい小説の連載を始める。

 

これが有名な「罪と罰」であり、この後次々と発表される作品が、この作家の歴史的名声を決定したといって良い。これは彼の60年の生涯の内で、最後の15年間のことであった。

 

<罪と罰>

 

 

罪と罰、工藤精一郎訳。

 

(↑、ドストエフスキーの代表作、といっても過言ではない。文学を好む者にとっては衝撃ともなりうる作品だと思う。人間の持つ「良心」をこれほどはっきり自覚させる作品もないと思う。)

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「罪と罰」こそは、人間の良心と、その在り方を問うた傑作。多分、これほど作家の明確な意図と、人間の本質を深く抉った作品は他に中々に存在しない。

 

これは、大学を中退した青年、ラスコーリニコフを通して描かれる、人間性の復帰への物語である。それは現代社会に通じる、人間の内面の在り方を正確に書いている。

 

はたして、主人公のラスコーリニコフは自己の世界に閉じこもっている青年である。しかし、自意識の強い彼はこれを満足としない。

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現代社会は各自の存在が、「壁」(物理的にも精神的にも)によって区切られることにより、他人の接触を避けて生きることが可能である(必要であればネットのボタン1つで買い物も可能だ)。そして、もし本人が望むのなら、その人間は「自分の世界」に浸りきって、生きていくこともまた、可能である。この状態が長く続けば、その人間は自尊心が強く、自分だけの考えが全て、と考えるようになる可能性が高い。

 

そのまま大人になった人達は、社会に適合できない人間になることもあるだろう。時にまた、彼らは日本でもあったように、そこから逃れたい場合は、信じられないような、突飛な行動をおこす。

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主人公のスコーリニコフは、人間には、ナポレオンのようになにをしても結局は偉大な功業を成し遂げたことになる、「特別の人間」と、ただ歴史の形成のために「材料」として使われるだけの、「普通の人間」とがある、と考える。そして自分は前者になることを夢想して、それを証明するために、金貸しの老婆リザヴェーダを斧で殴り殺し、400ルーブル足らずの金を奪ってしまう。

 

ところがこの犯行が、奇跡的に何の証拠も残さず、完全犯罪に近い形で成功してしまうのである。ラスコーリニコフは誰にも見つからず、殺人現場から逃れ、屋根裏の自室に戻るが、この後、激しい恐怖と孤独感に陥いることとなる。

 

当時ロシアでは、インテリゲンチャと呼ばれる知識階級の台頭があり、空想的に生きる人間というものが、認識され始めた時代であった。インテリで孤独に自室に閉じこもるラスコーリニコフは、現代でいうところの一種の「ひきこもり」であって、大人になり切れないモラトリアムを抱えている。

 

そして彼は、その状態を乗り越えるためには、人は何をしたら良いのだろうかと考える。

 

大人であればいくらかの経験から、もっと現実的な道を選ぶだろう。ところが大学を中退したばかりのラスコーリニコフはまだ若く、頭が働く。

 

本質的に「論理」というものは、現実から本質を切り離したものであって、それを再び現実に適合させようとすると、新たな努力が必要となる。そしてその努力の「量」によって、人ははたして事をなしうるかなし得ないか、ということを判断する。そこには人生の経験や、知識が必要だが、若いラスコーリニコフは「論理」を信じ切っていて、そこの判断ができない。

 

故にここに若くして、経験もなく「知識」のみを詰め込んでいく怖さがある。この点については、現代においても、大人の、あるいは社会全体で彼らの人生を導いていく義務があるように思われるし、そうあるべきだろう。

 

これは1人の自己欺瞞に陥った青年が再生する物語である。「人に認められたい」という欲求は、本質的に「人に愛されたい」という思いの裏返しであり、若者が「英雄」に憧れる理由、そして「大事」を為したいという欲求は、その「愛」によって解消されもするだろう。

 

ラスコーリニコフは、貧しい娼婦ソーニャの献身によって自己の間違いを認めて行く。そこには確かに「愛」がある。

 

熱っぽいこの作家の「意図」は、はっきりとしている。人間の再生をいかになし得るか、である。この点について、明確に描かれた「罪と罰」こそは、まさにドストエフスキー自身の若者に対する愛情が生んだ、ロシア文学の傑作だと思う。