アンドリス・ネルソンス指揮、ボストン交響楽団「ショスタコービッチ交響曲10番」(2015)。
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極めて洗練された表現、素晴らしく透明感のある音質。とても美しいショスタコービッチの演奏です。
これを聴いてしまうと先日発売されたブルックナーは全くダメだったと思ってしまう自分がいます。ネルソンスによるブルックナーは、レコード芸術でも「特選」扱いでしたが、個人的にあの月評氏2人は信用できないと感じてしまいました。参考にはしますけども・・・。
音の透明度が高く、分離も最高で、どの楽器の音色もカラフルに良く聴こえてきます。ネルソンスによってどの楽器も抑制を利かされ、決してうるさく鳴ることがありません。しかし各楽器の音色はメリハリが効き、芯はあるが柔らかい絶妙な音色を響かせます。テンポは遅く、演奏は丁寧すぎるぐらいです。若干かつてのチェリビダッケを思い起こさせるものがあります。
やはりネルソンスは資質としてもブルックナーより断然ショスタコービッチに向いているといえるでしょう。感動は深いが、暗い、陰鬱な交響曲であるはずのショスタコービッチですが、ここでは都会的ともいえる知性の洗礼を受けているようにも思われます。当然昔ムラヴィンスキーの演奏で聴いたような激烈すぎるほどの感動はもうありませんし、表現の激しさではそこには到達してはいません。
しかしネルソンスはどのメロディーの過程でもおろそかにすることはなく、丁寧に美しく弾かせます。その分表現の激烈さは身をひそめるようですが、これぐらいであれば十分かと思いました。久しぶりにショスタコービッチの「心の声」ともいうべきものを聴いた気がします。感動しました。
しかし改めて聴くと、この曲の第1楽章は本当に素晴らしい音楽だと思います。
1953年、スターリンが死に、表向きスターリンを賛美していたショスタコービッチの書いた音楽とは?、というところでしょうか。
それは極めて沈鬱、恐ろしいほどの皮肉と、作曲者自身の本心が表現された音楽です。
スターリンへの賛歌など全くなく、曲が始まるとすぐに民衆のうめきとも取れる、暗く冷たい鉛色の世界が広がります。音楽は静かに激しさを増すと、展開部後半から再現部にかけて、ヒトラーと比肩しうる人間怪物であったスターリンに対する、作曲家自身の怒りと正義の念とが混然一体と成った強烈なヒロイズムとなり、情念の爆発となります。その姿は、弦が支える空間に管楽器が各々の意見を述べる様が、いくらかブルックナーの交響曲9番を思わせ、内容もかの大交響曲に遜色なく、格別に素晴らしいものがあります。
ショスタコービッチ自身が「スターリンの肖像」といったとされる第2楽章のスケルツォも最高で、意義深い演奏です。攻撃的で、グロテスク、なおかつ焦燥感に満ちたスターリンの姿のリアルな描写は、作曲家の冷徹な観察眼と、理性とに裏打ちされています。そしてリアルさを増すほどに皮肉の印象は強まり、スターリンの愚かさと残酷さとが浮き彫りになっているといっても過言ではないでしょう。
数ある交響曲の中でもこの作品は傑作の1つとみて間違いなく、このCDはその名演であると思います。
ヤニック・ゼネ・セガン指揮、ヨーロッパ室内管弦楽団、「メンデルスゾーン交響曲全集」(2016)。
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熱心に音楽の内容を表現しようとしていた時代において、指揮者達は音楽の美しさを台無しにしてでもその内容の表現に固執したといえました。
ところで、音楽とは何が表現されるジャンルの芸術でしょうか?
リズム、雰囲気・・・そして感情、といえるでしょうか・・・?まさに音楽は「感情」がそのまま「感情」として直接味わえる稀有な芸術です。
昔の指揮者は曲における、その「感情」のツボに当たるポイントからポイントへと意識を集中して表現をしました。その分ポイントとポイントの間の表現は荒く、汚いことが多かったといえますが、楽譜に表現された作曲家の感情をヴィヴィッドに伝え、強力な作曲家の使徒となりました。
そして長らくクラシック愛好家にとってみるとそうした指揮者の在り方が「指揮者」としてのスタンダードだったといえるでしょう。
ところがカラヤンやチェリビダッケ辺りが現れてきて、指揮者の「指揮する」という行為が、「作曲家の意志」から分離されるようになり、近年遂に、「指揮」そのものが「指揮芸術」という形態に変わってきたといえます。
当然以前からこれらのことは意識されてきた、といっていいかもしれませんが、現実に有無をいわさない形で結実したのは、カラヤン辺りからだといえます。カラヤンの演奏に批判的だった人と違う人の差はこの辺りにあるといえるでしょう。
例えば、今でも「カラヤンの演奏なら何でも良い」、という人がいますが、これは「カラヤンの指揮芸術」に対する評価であるといえます。従来の、「作曲家の使徒」という意味合いで行けばカラヤンの指揮したもので評価されるものはR・シュトラウスの作品や、オペラ演奏についてだといえるわけです。そしてこうした評価は、どちらの形で評価しようと思えばいくらでもできるものです。これらの差が分からない、ということは、もし長らくクラシック音楽を聴いてきている人ならば、一種の「無知」を晒しているようなものです。
前置きが長くなりました。
新進気鋭の指揮者、ネゼ・セガンのメンデルスゾーンです。
ここには荒れた、汚い表現はなく、どの曲もしなやかでカモシカの脚線美を思わせる流麗な表現を見せています。指揮者の資質としてもメンデルスゾーンの音楽にあっている部分は多いように思います。
洗練されたオーケストラと表現で極めて爽やかにメンデルスゾーンの音楽を聴かせてくれます。従来の「作曲家の使徒」という目線でみると、厳しさにかけ、表現も弱いと思いますが柔軟な美しさは素晴らしいと思いました。
交響曲2番「賛歌」の透明で麗美な表現、4番「イタリア」の柔らかい流線型の表現なども魅力的だと思います。5番「宗教改革」はやや暗めで退屈な第1楽章もソフトで聴きやすく、終楽章の「神は我がやぐら」のメロディーに入っていく印象も気持ち良いものがありました。

