
新約聖書は旧約聖書と共にキリスト教の聖典である。内容はキリストの弟子達が伝える福音書や、手紙などからなり、結部には不気味な印象を放つ「ヨハネの黙示録」が置かれている。
キリスト教はユダヤ教の教えを引き継ぎつつ、ユダヤ人のみの、かの宗教から離れ、世界宗教となった宗教である。
個人的な印象を述べるのなら、イエス・キリストの生涯と現世への現れは「アダムとエヴァ」以来、人類が引き継がねばならなかった「原罪」脱出への回答の一つである。そしてこの点が強調されるが故、イコンとしての磔刑にさらされたキリストの像がまさに私達に強烈な印象に残るのだと思う。
完全な中立性が「善」と「悪」とに解体されていかざるを得ない、「人間の批判能力」の持つ力を「苦しみ」の原因とするのなら、その解体された「善」と「悪」とをそのまま受け入れねばならない、ということが描かれている。そしてそのことが、はっきりとさらされたイエスの磔刑の姿は、「象徴的」といわざるを得ないだろう。
「善」とか「楽しみ」を受け入れるのは私達にはたやすい。しかし、反対に「悪」とかいわれること、あるいは「苦しみ」と感じることを受け入れる難しさをどう表現できるだろう?

メル・ギブソン監督の映画「パッション」(2004、アメリカ)の中で描かれるイエス・キリストの姿は厳しいものがある。ひどい鞭打ちの刑にさらされるイエス・キリストの姿はややヴァイオレンスに傾いている映像とはいえ、私達の生き方そのものを問うてくるには十分なものがある。
この映画を仮に正しいとするのなら、あばら骨までさらけ出すような仕打ちにあってまで、私達は一体その相手を「許し」、また彼らのために「祈る」ことができるだろうか?
この監督の描いたイエスの姿が正しいとはいえないかもしれない。しかしその意義は充分伝わってくる。相手を愛することとは?相手を許すこととは?私達自身が、どの程度の深さまでその愛と行為とを深めれば、イエスの神性を自らの中に発見できるというのだろうか?
ダンテのいうごとく、神人合一の境地に達しうる人間はこの世に一体どれほどの数がいるのだろう?
新約聖書において、人類全体が自らの努力でその神性の開発を求めているが、究極的な選択は結局私達自身にまかされている。
この書物の最後におかれている「ヨハネの黙示録」は人類がその「神性」の開発を怠った場合の、人類全体の「結末」を描いているように思える。
ここではほんのわずかの「行いの正しい人」達を除いて、ゴクとマゴクたる勢力に分かれ、争いを行う。その混乱の中、そこに現れるのは悪の使いたる存在で、彼が一時期この世界の王となる。3年と半年の間、この世界を支配するという。しかしそれも文明の崩壊と、想像を絶する天変地異で終わりを告げる。
そしてその後に「行いの正しい人」達によって新たな地上天国が作られる、という内容になっている。
逆にいえばイエスの教えは人類がそうした世界、つまり破壊的な存在に支配される世界に陥らないようにするための教え、ともいえるのかもしれないが。
この書物の内容を想像の産物とするか否かは難しいところである。イエスは水の上を歩き、あるいは死人をよみがえらせ、あるいは自身が復活もする。
だが、ここにあるべき人間への警告、またはその教えは人間の本質をついており、一度は目を通す価値はあるだろう。