この、ブルックナーの交響曲8番における解釈が、実はチェリビダッケの音楽に対する態度の本質的な部分の一部になっているのは間違いなく、その他の演奏にも表れることが良くあります。
特に声楽。ヴェルディの「レクイエム」(1981)やバッハの「ロ短調ミサ曲」(1990)、ブルックナーの「ミサ曲3番」など。管弦楽曲では彼の代名詞ともいえる「展覧会の絵」などもそうでしょう。
一人、厳粛に辺りをゆっくりと見渡すような彼の態度が見て取れ、曲に対して強固な客観的態度を示しているように思えます。
ただ僕はこの辺りの曲の解釈はかなりきつく、正直最後まで聴いていられません。いつ終わるのかも分からないような超スローテンポの演奏で、曲に内在する人間の生の感情を表現しようとするのではなく、その時々に再現される音の美しさを楽しんでいるかのような演奏です。
ブルックナーの音楽なら音の響きの美しさを追求されるべき側面がありますから、分かりますが、ヴェルディなどは多少音が濁っても人間の生の感情が表現された方が良いに決まっています。バッハにしても動きの多いバロック音楽が、彼一流の、フレージングの長い、濃厚な響きに合うとは思えないところです。
だから彼の演奏が純粋な感情の表現である、「絶対音楽」に向いていないかも知れない、と思うのですが、実際は必ずしもそうでないところが不思議です。
古典派やロマン派の交響曲においても、チェリビダッケはきわめて個性的でありながら、十二分に鑑賞に堪えうるものに仕上げています。
僕にとってこれらの演奏は極めて魅力的であり、曲そのものを楽しむ、というより、チェリビダッケ流の瞑想的な演奏を楽しむ、という印象でしょう。豊かで、うるさくない響きは優しさに溢れています。
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チェリビダッケ指揮、交響曲選集。ハイドン交響曲92・103・104番、モーツアルト交響曲40番、ベートーヴェン交響曲2・3・4(2種)・5・6・7・8・9番、シューベルト交響曲8(9)番、シューマン考交響曲2・3・4番、ブラームス交響曲全集。ワーナー。
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(以下のジャケットの写真はボックスのものでなく、個人的に以前から所有している単売でのものです。かなりのカブリで所有しているということです。)
チェリビダッケは、ベートーヴェンという、この作曲家特有の、感情の圧縮された爆発を表現せず、豊かな響きを生かして、華麗な音の世界を見せてくれます。第9(1989)などはこうした表現では曲を生かしきれないと思いますが、「エロイカ」(1987)や「田園」(1993)などは響きの艶やかな面白さがあります。特に「田園」は僕の愛聴盤で、自然描写の感覚的な美しさは出色でしょう。
シューベルトの「グレート」(1994)は、ロマン派の初期の作品ながら、ブルックナーに繋がる寛容さのある曲で、テンポを落とすと、響きの美しさが生きます。チェリビダッケと同じようにブルックナーの演奏で名を鳴らしたギュンター・ヴァントの演奏も瞑想に満ちて素晴らしかったですが、チェリビダッケも同様かと思います。
ブラームスとシューマンも名演です。
ブラームスについてはシュツットガルト時代の交響曲全集も出ており、聴き比べてみるのも面白いかもしれません。新旧、どちらも個性的な全集で、シュツットガルト時代のものは響きに透明感があり、美しいものです。しかしながら、ここにブラームス流の音楽の分厚さはなく、立体感の乏しい平面的な響きとなっているのもまた特徴でしょう。
ブラームス交響曲全集。チェリビダッケ指揮、シュツットガルト放送交響楽団。グラモフォン。
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聴いていて、この演奏は、ブラームスの音楽そのものを聴く演奏ではない、と思えてきます。以前も書きましたが、こうした濁りの全くない音作りはブルックナーには適していますが、ブラームスの場合、ちょっと音楽の中に意識を投入しづらい恨みがあります。第4(1974)などは美しいとも思いますが。
それに比べるとミュンヘン時代のものは解釈そのものはもっと個性的で、場合によってはやりすぎ、とも思わせるものがあります。シュツットガルト時代のようなセコセコしたテンポは鳴りをひそめ、晩年の腰を落とした、深沈たるテンポで音楽を再現していきます。
音楽の表面をなぞるような演奏なのは旧全集と変わりませんが、こちらはもっと音楽の構造に深入りしており、響きも透明感を有しながらも柔らかみを増したため、全体に深みを増しました。これぐらいのテンポであればのろすぎるということもないようです。
第1交響曲(1987)の第1楽章の、馬鹿でかい、怪物のあぎとのような再現部はどうでしょう。こんな風に演奏できるものだとは思ってもいませんでした。これもまたブラームスの音楽とは思えない瞬間です。また第3交響曲(1979)の第2楽章のアンダンテでは柔らかい、深沈たる響きが極まって、豊かな音響の世界を築いていきます。この辺りはとても美しいな、と思います。
第4(1985)においても旧全集の、時に見せる金属的な響きは鳴りを潜め、柔らかな感覚的なトーンと奥行きのある立体感が一致した中々の名演ではないでしょうか。
個性的なブラームスの演奏に比べるとシューマンはもっと常識的なようです。もっとやりたい放題なのかと思うと肩透かしを食らいますが、第3番の「ライン」(1988)の第1楽章の厚みのある響きを聴くと、シューマンの溌剌とした気持ちが伝わってきて、そんな思いも吹っ飛んでしまします。
2、3、4番共に名演で、曲の良さを十分堪能できると思いました。他にもチャイコフスキーの交響曲も楽しめます。
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チェリビダッケの演奏には常にテンポの問題が付きまとうようです。テンポといえばトスカニーニのように、客観的に外付けされた一定のリズムを思い出しますが、ライヴァルだったフルトヴェングラーはそれと違う考えを有していたようです。ある移行部のテンポについて聞かれたフルトヴェングラーは次のように答えたそうです。
「それはそこがどう響くかによって違う。」
有名なバイロイト盤の第9における、第3楽章の、心臓の鼓動さえ伝わってくるのではないか、とも思える、信じられないような演奏を聴くと、テンポというのは一つの方便であって、結局その内容の追求の方が芸術的に重大である、という彼の考えが嫌というほど伝わってきます。
音楽は有機的な一つの生命であり、場面ごとに違うテンポになるのは間違いない、というところなのでしょう。しかしその考え方からいくと、音楽は細部まで事細かに追及されねばならず、場面によっては全体の造形を乱す時も出てくることになります。
チェリビダッケの演奏を聴くと、フルトヴェングラーのような激しいアゴーギグがないとはいえ、彼の直系の弟子である、というような響きを感じるときがあります。細部まで解きほぐされ、共鳴豊かな音響の世界に身を沈めるとき、商業主義とは相容れない、純粋な音楽家・・・いやそれ以上に芸術家的な側面を、チェリビダッケには見出します。
まるで墨絵のような旧EMIのジャケットを見るにつけ、時代に翻弄されながらも複数の重要な側面(音楽、哲学、宗教など)をつなぎ合わせながら、彼独自の存在意義を獲得していった、ということが淡い思い出のように思い起こされるのです。





