<140716 原題『ANY DAY NOW』 トラヴィス・ファイン監督、アラン・カミング、ギャレット・ディラハント、アイザック・レイヴァ> I Shall Be Released (ボブ・ディラン)
麻薬中毒の母親に育児放棄されている15歳のダウン症の少年マルコ。
隣に住むゲイのダンサー、ルディが引き取ろうとするが、単身では引き取れない。恋人の法律家ポールをいとこと詐称して監護権を得て引き取る。
1年間は幸せな日々だった。
マルコが好きな、チョコレートドーナツを食べ、
マルコが好きな、ハッピーエンドのお話をして・・・
しかし、周囲にゲイカップルだと告発され裁判に。
少年は施設に戻り、「電話で家に帰りたい」と訴える。「迎えに行く」と約束して電話を切る。だが、検事は母親と仮釈放と引換えに監護権請求するという条件で取引、少年は母親と暮らす。
ゲイの2人は接近禁止。
母親は再び男を家に引き込み、「外へ行ってて」とマルコを家の外に出す。
マルコにとって"家"はルディとポールと暮らした家。
マルコは”家”に帰ろうと3日間さまよい、橋の下で死んだ。
裁判では弁護士でもあったポールは、その小さな死亡新聞記事を検事、判決を下した判事、ゲイカップルを告発した元上司に送る。
ゲイであることが不道徳である以上に宗教的を許されないという文化だから、周囲の"嫌悪感"は汚物を見る目だ。
単なる好心とは違う。
ゲイを忌避し子供から遠ざけるのは差別じゃなく「正義」なのだ。
その「正義」の結果、無垢な子供が傷つき悲しみ打ちひしがれて死ぬ。これがあんた達の正義か!と
ゲイだから子供の教育環境に不適切で、母親ならどんな人間でもよい環境なのか?と
検事や判事は自分の手で下した「正義」の結果に、どう落とし前をつけるんだよ!!と
ポールは「正義の守護者」達に、そう言いたかったわけだ。
映画観た後で、ポスターのコピーを見た。
「感動作」・・・・・?
・・・・ どう感動するの?・・・・・
ゲイカップルとダウン症の子供が、優しく温かい束の間の家族になったことに?
マルコの純真な笑顔に?
ゲイカップルが偏見と差別の視線に堂々と立ち向かったことに?
そうかもしれないけど、結局、親からも司法からも「育児放棄」された子供が、
”自分の家”に帰ろうとして、
たった1人で、3日間さ迷い歩いて、
ぬいぐるみを抱いて、
「ハッピーエンドのお話」を聞きたいと夢見ながら、
橋の下でたった1人で死んで、
感動的っていうの?
「ハッピーエンドのお話が好きな子ども」がたった1人で野垂れ死にしたんだよ。
それで、「感動作」なんて言うな!
悲惨、悲惨、この上なく、悲惨!
どうして、これを、「感動作」ってコピーをつけるの?
ま、いいけど、人それぞれだから・・・・
このお話は、1979年。
同性愛に対する差別は今よりもっともっと強かった頃。
日本は、同性愛への差別偏見はもちろんあるけど、信長と蘭丸の例のようにわりに許容する文化もあった。
けれど、おそらくキリスト教文化、いや旧約聖書文化かもしれないが、欧米文化では宗教的背徳であるという意味で、嫌悪感がムチャクチャ強いのだと思う。
ノアの箱舟伝説では、世界を洪水で滅ぼしたあと、神は「産めよ増やせよ地に満てよ」と祝福する。生殖は善なのだ。
よって、生殖(繁殖)を目的としない性行為は罪である。
同性愛は生殖しない、「産めない」から、神に背く行為、大悪徳、悪魔の業なのだ。
マルコを引き取ったのが、ゲイカップルだ、と知られた時の周囲の反応の過激さは、単に、「エエーッ、あの人達、ゲイなんだって」というワイドショー的好奇心、ではない。
嫌悪と憎悪、自分たちの清潔な町を汚す腐敗物を見る目だ。
自分たちの生活圏がソドムとゴモラになることの恐怖。
そして、そのゲイカップルからマルコを引き離すことは、悪魔の手から幼子を救い出すこと。
たとえ悪徳に落ちた母親でも、悪魔よりマシ、というわけだ。
神に代わって天のイカズチをゲイカップルに下そうとする人々の恐怖に怯えた目つきが、
私は実に怖かった。
「正義」と信じて、自分と違うもの迫害する人間ほど怖いものはない。
ルディが歌う、I Shall Be Released
「光が輝き、西から昇り、東に沈む。その時、きっと自由になれる」
「太陽が西から昇るほどあり得ないことでも、それでもきっと自由になれると信じる」
そういう意味かな、と思う。
この歌の解釈はいろいろあるようだけど、私の独断での解釈。
1979年当時、同性愛への差別がなくなるなんてことは、太陽が西から昇るほど、あり得ないことだった。
でも、今2014年、同性愛者の結婚を認める法律も広がりつつある、
現に社会は、世の中は変わってる、太陽が西から昇っちゃってる。
ね、変わるんだよ、社会は変えることができるんだよ。
変えようとして戦ったから、変わったんだよ。
たとえ、今は変わらなくても、信じようよ、
変えることができるって、信じてようよ。
って、そういうメッセージなんじゃないかと、思う。
ルディは女性っぼいけど、強情で自分を貫きたいという意志が強く、しかもそれは散々に抑圧された過去があるため、「負けない、たとえ勝てなくても、負けない」という姿勢。
ポールはルディに一目惚れして、けれど社会的な立場を守るために臆病になり、ルディの行動に怯え、恐れ、おどおどしている。
しかし、仕事を失い、マルコを奪われ、次第に自分を主張する強さを得ていく。
裁判での彼のスピーチ、これはたしかに感動的だったな。
でも、思い出せば、思い出すほど、
悲惨な話、胸が詰まる話なんだよ。
それを「感動作」ってコピーつけるか?
どういう神経なんだか私には解らない。
ま、いいけど・・・