まおルウ の どうでもいい話(ネタバレ・勘違いありま~す) -2ページ目

まおルウ の どうでもいい話(ネタバレ・勘違いありま~す)

    常にネタバレ、独断と偏見、山積み満載
         ご容赦ください。   
              
 それにしても
   リアリティのダンス 観てから以後、
      他の映画が なんかつまらない・・・困ったな

「完璧なエイミー」はどんなシナリオを描いていたのだろう。

親が娘をモデルに描いた人気漫画「完璧なエイミー」

子供の頃から、初めてあった人から「あなたが完璧なエイミーなの?!」言われ続けた「普通の女の子エイミー」

映画の後半から気になった。
エイミーの「完璧な犯罪」の結末は?と。

自ら失踪し、夫を犯人に仕立て上げ、死刑にする。

「完璧なエイミーの完璧な結婚」を裏切った夫への復讐。

室内

しかし、そのあと、どうする?
「失踪」は難しい犯罪だ。
夫への復讐を果たした後、エイミーはどうやって「幸福な人生」を築く?

資産を隠しもって、他人になりすまして生きる?
エイミーが隠れ住んでいたドライブインで、ウエストポーチに入れたお金を盗まれる。
それで計画が狂い、コリンズに連絡をとった。

ウエストポーチいっぱいのドル紙幣がエイミーの全所持金だったのか?
たったそれだけのお金では、「幸せな人生」が買えない。
クレジットカードも入っていた?
しかし、カードを使えば、生きていることがバレる。

「完璧なエイミー」は失踪後、どうやって幸せになる計画だったのか?

そして、もう一つの疑問。
死体ナシで、夫を死刑にできるのか?

エイミーが、たとえば、カナダとかに逃亡し、他人になりすまして生きるとしたら、「死体」がない。
夫を死刑にできる?

しかし、どうやらエイミーは「死体」になるつもりだったようだ。
1,2度、チラっと浮かんだ、「水に沈んだエイミー」。

あれがエイミーの「完璧な結末」だったのか?

キリスト教徒が「KILL SELF」を決意し、実行するのは、心理的にかなりの困難が伴う。
その困難を乗り越えるほど、エイミーの夫への憎悪は深かった、ということか?
いや、
「完璧なエイミー」は夫に浮気され、しかも夫を恐れる「不完全なエイミー」を憎悪していたのか?

エイミーが憎悪し、消滅させたかったのは、「完璧なエイミーになれない自分の人生」。
そこまで自分のイメージにとらわれるのか?!
まさに「完璧なエイミー」。

しかし、
エイミーの「完璧な計画」は、ドライブインの隣人に「隠れている」ことがバレたことで破綻する。
この点、うかつ。
さらに、コリンズに頼ったことで、さらに破綻。

夫はマスコミを逆に利用して立場を回復しつつある。
この形勢逆転の状況からの、再逆転は、実に恐ろしい。

いったん破綻した「完璧な計画」を、再構築してさらなる「完璧な復讐」を完成するところが、やはり「完璧なエイミー」なのだろう。

後半は、驚愕と恐怖、だけど、しかし、現実味は薄い。むしろ、ホラーに近いけど。






<141217 アメリカ 監督:デヴィッド・フィンチャー CAST:ベン・アフレック ロザムンド・パイク ニール・パトリック・ハリス>

デートムービーとしては極めて危険!

エイミー01

 エイミー02

NYから夫の故郷へ転居してきたニックとエイミー。けっこういい家に住んで、知的な若夫婦、というイメージ。
でも、お定まりの倦怠期、夫の浮気に気づいてしまったエイミー。

エイミー04


そして、エイミーの失踪。現場は自宅。ルミノール反応、焼けた妻の日記。

日記 人形

犯人として疑われていく夫ニック。

だいたい、ニックがおマヌケすぎる。
アリバイなし、財産はみんな妻名義、妻の生命保険増額。
あまりに「犯人は夫です」と揃いすぎている状況証拠。

妻にハメられたな、というのは予告編でさえアリアリと解る。
予告編見て、結論出たミステリーはみる必要ない、これ以上話をどこへつなげるの?と思いつつ、それでも、観た。
そしたら、話はそれでオワリじゃなかった。
妻エイミーのすごさ、賢さは、そんなハンパなものじゃなかった。

あまりお金を持たずに「失踪」して、夫を犯人にしたあと、どうやって生き延びる計画なのか、今イチ解らないけど、ウッカリ無一文になってしまったエイミー。
これは計算違いだったのだろうけど、その後の修復がすごい。

元カレ、コリングスに助けを求めるが、逆に別荘に監禁されてしまう。
コリングス

で、コリングスの喉をカッターで描き切って、血まみれで、警察に現れたエイミー。
ニックは釈放され、2人はラブラブの夫婦として人の目を欺きながら、夫婦であり続ける。

なんかもう、結婚前のカップルで観たら、心底冷え冷えとしそうな結末。

もちろん単に「結婚」を揶揄する映画、ではなくて、エイミーという人格が、子供の頃から「演じ続けてきた人格」というのが、核なんだけど。
エイミーは母親か父親が描く「完璧なエイミー」というコミックのモデルで、コミックのエイミーとともに成長してきた。コミックのエイミーは「完璧な女の子」。しかし、現実のエイミーはもちろん完璧な女の子ではない。
イメージと現実の自分とのはざまに苦しみながら成長したエイミーは、期待されているエイミーを演じつつ、劣等感にも苛まれてきたのだろう。
出会った相手の期待に添うよう演じることが習性になってしまっているが、それと同時に、素の自分とのギャップに苦しむ。

エイミー

夫の浮気、それは、演じている「完璧なエイミー」を否定されること。
自分自身の全存在の否定であると同時に、「完璧なエイミー」を捨てて、名もない自分で生きる好機でもあったのだろう。

夫を犯人にしたて、死刑にし、自分は別の世界で生きる。
それがエイミーの生き直し計画だったのか?

しかし、生き直しは失敗。
それならば、さらに「完璧な幸せな夫婦」を演じ続けることで、夫への復讐を果たす。


終盤のエイミー、ちょっと恐ろしすぎる。

この映画を「戦車映画」「英雄映画」「仲間映画」と、みるのは、私だって、まあ、当然だと思う。

だって、戦車戦の連続だし、命かけて戦ってるし、ブラッド・ピットのウォー・ダディは部下の命を預かる指揮官として必死だし、「戦争・英雄・旅の仲間映画」であることはたしかです。

でも、私が引っかかるのは、その戦車戦や、死体がバラバラ散らばっている戦場や、ドイツ兵を打ち殺すシーンの連続の、その合間のブラッド・ピットの暗い暗い「カナツボまなこ」の絶望的な悲惨さ、なのだ。

たたずむドン

彼がキャタピラが壊れたFURYを指さして言う、
「This is my home」

あのシーンを、戦車FURYとともに戦い抜いてきた男の「戦友=FURYへの愛」、「自分の持ち場を死守する英雄的行為」と見る向きも多く、涙なくして語れない人も多いようだけど、
私はあのシーンのブラッド・ピット、ウォー・ダディ(戦争オヤジ?)
途方に暮れてるようにしか見えなかった。

捨てられた子犬が、橋の下で雨露しのいできた汚れた段ボール箱。
「これが僕の家なんだ」とうなだれる捨てられた子犬。

ウォー・ダディは途方に暮れ、ベソをかいているようにしか見えなかった。

戦場を転戦して、ひたすら生き延びるために人を殺してきた。
ナチ、SS、と聞いただけで憎悪と憤怒に駆られる。
理性は吹き飛ぶ。

殺せ、殺せ、殺せ、
子供だろうと、女だろうと、老人だろうと、
動くものはみんな、殺せ。

殺さなければ、こっちが全滅する。

それだけで生きている。
これが人間の生き方か?

この戦場のドツボにはまって、どこへも行けない。
彼が生きる場所は、「ここ」しかない。

子犬が捨てられた場所は「戦場」だったのだ。
そこで必死で生きるとは、必死で人を殺すことだ。

ウォー・ダディにあるのは、それだけだ。
人殺しだけ。
それ以外の世界ではもう生きられるとは、彼自身、思えない。

fury

「This is my home」
戦車が、戦場が、彼のHome。 こいつらが家族、
そして、
殺せ、殺せ、殺せ。
戦場でしか、もう彼は生きられない。

そして悲惨なことに、彼はそれをちゃんと知っているのだ。
自分を知っているのだ。

文官(タイピスト)のはずが、手違いで戦車部隊に送られてしまったノーマン。
彼は、自分の主義として「人は殺さない。たとえ、自分が殺されても殺さない」と言い張る。

戦場では、1人が「殺されても殺さない」と、他の全員が「殺される」のだ。
ノーマンの主義は仲間全員を死の危険にさらす自己中でしかない。

ノーマンを見るドン

ウォー・ダディは指揮官として、ノーマンを銃殺してもよかったのだ。
他の仲間の命を守るために。
もちろん、人員不足の前線では、たとえ自己中ノーマンでも排除することはできなかったのだけど。

ノーマンは、ピアノでショパンを弾き、マナー正しく食事をする文官志望の若者だ。
ウォー・ダディはどういう出身か不明だが、ノーマンに近い階層なのではないだろうか。

平時であれば、女性と穏やかな家庭を持ち、音楽など文化的な楽しみを持つ、
そういう階層だったのではないか。
だから、ノーマンに自分をみる。

ノーマンピアノ

2次大戦の時代のアメリカ庶民で、ピアノでクラシックを嗜み、テーブルマナーを守って食事する、というのはどういう階層だったのだろう。
特別金持ちでもないけど、「一生ハンバーガーを焼いている」層よりは上。
ノーマンとウォー・ダディはそういう階層出身のように思える。

他の兵隊たちが女と酒とバクチで憂さ晴らしをする前線で、ウォー・ダディは自分が失った平和な家庭の夢を見たのではないか。

荒くれる兵隊たちを嫌悪はしない、やむを得ない、と認める。
しかし、ノーマンにあったはずの初々しい青春は、ウォー・ダディが失ってしまった世界の幻影なのだ。

ウォー・ダディにとって、ナチ、SSは、自分たちから、そうした良き生活を奪った悪魔。
「殺してやる」という条件反射。

しかし、「その悪魔、ヒットラーを神は救うのか?」
キリスト教徒の心の闇は深い。

信仰など持っていないようなことを言っているウォー・ダディが、
抹香臭い部下、バイブルの言葉に
「イザヤ書・・・・」と反応する。
「聖書を読んでるじゃないか」とちょっと驚くバイブル。
知らなくて聖書に反発するのではない。知っているからこそより拒否は強いのだ。

ドン


幼児の頃から叩き込まれているキリスト教の精神。
現実と聖書が解く理想とのはざまで、揺れ動き深まる心の闇。
それはキリスト教文化で生きていない私には計り知れない部分だ。

深い心の闇を抱えて、絶望を抱えて「人殺し」を続ける人生。
人殺しを称えられ、褒められる人生。
どうしようもなくそう生きるしかない惨めな戦場人生。
自分の人生に激しい怒り(FURY)を抱えたウォー・ダディ。

私には、そうとしか見えない。

これを「英雄」って感じる感性は、「滅びの美学」に毒されてるんじゃないの?

furyタイトル

       傷ついているのは、「世界」じゃない。兵士だ、人間だ!!!!

<1411 監督デヴィッド・エアー 総指揮ブラッド・ピット CAST ブラッド・ピット  シャイア・ラブーフ  ローガン・ラーマン 原題 FURY(激しい怒り)>

1945年4月 ヨーロッパ戦線の最終局面、ドイツ領内。アメリカ軍とドイツ軍の戦車がまさに死闘を繰り広げている。

冒頭あまり時間がたってないところで、胸が締め付けられ、涙がこみ上げる。
ずっと、それが続いた。 いまだかつてこんな経験はない。
悲しい、あまりに悲しいのだ。

冒頭の戦闘が終わり、FURYの乗組員の1人が死んで、補充兵がやってくるあたりから。
あるいはその前から、胸が締め付けられる。
なんで?なんで?と心の中で思い続けるが、涙がこみ上げる。

捕虜  戦闘

死体がゴロゴロ転がっていて、その上を戦車がペキペキ踏んでいく。
戦車に肉片がこびりついている。
新兵ノーマンにナチのSSを処刑しろ、と指揮官ドン・コリアー(ブラピ)が銃を突きつける。
捕虜、一般避難民の群れ。

そんな凄惨・悲惨な映像の連続、が悲しいんじゃない。

戦車戦の壮絶さに、ではない。
転戦し続け、常に生き残ってきたドン・コリアーと、その部下たちとの絆・信頼の熱さに、でもない。

なんで?なんで?
と思い続ける。

これだ! 
ブラピの目、だ。

たたずむドン

ナチを憎み、SSを憎み、
「殺せ、殺せ、殺せ」、「動くものは全部殺せ」、
「でなければ、こっちが殺される」と怒鳴るブラピの目。

目が死んでる。
ゾンビの目。
精神的ゾンビの目。

ドン・コリアーはアフリカ戦線、ヨーロッパ戦線を転戦して生き残ってきた優秀な指揮官だ。
部下達に、「お前たちを必ず生き延びさせる」と約束し、FURYを率いてきた。

「平和は理想だ、だが、歴史は残酷だ」(記憶違いがあるかも)と現実を語るドン・コリアーが、どういう出身(家族とか)は解らないが、ただの野蛮な兵隊あがりの軍曹ではない、ということは、時折描かれる。

ノーマンを見るドン

タイピスト志望なのに間違って戦車隊に配属されてきた新兵ノーマンに、怒鳴りながら「戦場」を叩きこむドンは、じつは、ノーマンに自分を見ているのだろう。

ノーマンピアノ

ブラピの目が、あまりに痛ましい。実に痛ましい。

2次大戦のあと、ベトナム、アフガン、イラク、
アメリカの息子たちは、ずっと人殺しを続けてきたのだ。

「戦争」にどれほどの大義名分をつけても、
「戦場」はただの殺し合いだ。

殺す理由は、憎悪、激しい憎悪だ。
正義など、大義名分など、吹き飛んでいる。
正義や大義名分で人を殺せるのは、精神異常者だ。
まともな精神状態の人間は、精神的ゾンビにならなければ、あたり一面を死体だらけにはできない。

ノーマンとドン

「殺さなければ、殺されるから殺す」
それしかない。

「神はヒットラーも救うのか?」
同じキリスト教徒として、悲痛な疑問だろう。

彼らには異教徒相手の戦争なら、まだマシと思えたのかもしれない。
イスラム教徒や仏教徒なら、殺す言い訳でき、心の慰めになったのかもしれない。

でも、結局は、自分の手で「人間を殺す」ことに変わりはない。
自分が「人殺し」であることをまさに身を持って体験する、それが戦場だ。

人を殺す理由は、
   自分が殺される、という恐怖。
   自分を殺そうしている相手への憎悪。
これだけ、

ドイツ兵

戦争の大義名分など、言い訳にしか聞こえない。


ウォー・ダディ=ドン・コリアーはFURYを「家」、乗組員を「家族」とし、「人殺し」を稼業とするしかない。
「これが戦争だよ」とゾンビのブラピの目がいう。

「史上最大の作戦」のユル・ブリンナーのセリフ、
「俺は負傷者で、お前は迷子だ。そしてあいつは死んでいる。それが戦争だ」は
まだまだ甘っちょろかった、と思えてくる。

痛ましい、あまりに痛ましい、悲しい精神崩壊を描いた映画。

狂気の戦場と呼ばれた「ペリリュー島」を思い出す。
ベトナムでマリファナつけだったアメリカ兵を思い出す。
「ハート・ロッカー」の戦争中毒、戦場へもどる男を思い出す。

   ドンと部下

精神的ゾンビでなければ人を殺せない、生きるためには殺すしかない、とブラピの目が訴えてくる。

ラストシーン
友軍に救出されたノーマンが
「英雄?クソくらえ(Fuck you!)」とつぶやく声が聞こえたような気がした。
いや、ドン・コリアーの声だったのかも。

これを「戦車映画」とか、「仲間の絆」とか言って感動してるヤツは、
いっぺん、戦場で人を殺してから言え。

この豊かに深い沈黙の前で、卑小な饒舌になにを言えというのか・・・

観終わった瞬間の感想は、「よく撮ったな」。
こういう映画と「撮ろう」という監督の志しに感嘆した。

そして、監督もカソリックなのだろう、と思った。
宗教心なしにこの映像は撮れないだろう。同時に観る側も宗教心の有無で受け止める心の深さが違うだろう、と思った。
またしても、疎外感・・・
宗教心があれば、もっと深い感動があるだろうな、という卑小なやっかみ・・

といっても、決して宗教臭いのではない。
自足することの充実に満ち、
光が美しく、明朗、自由、人間らしさ、に満たされている。


映像は、フェルメールを思い起こさせる。
静かな光、陰影。

照明を使用せず、1人で黙々とカメラを回す監督の視線の先に、清明な時間が切り取られている。

一番感動したのは、新しく修道士になることを志した若者との面接。

「ここでの生活が自分に合わないと思った時、あなたは出ていく自由があります」
「あなたがここに合わない人だと判断した時、あなたに出ていくことを求める自由があります」

そして、そのあと、全員の修道士と抱擁をかわす。
言葉のない歓迎。なんという温かさ。

「よくきたね」
「嬉しいよ」
「待っていたよ」
「戻ってきたね」

そんな言葉が会堂に充満しているのが「見える」。

「修道院」「無言」などというと、ピリピリした厳格な印象を受けるが、そうではない。
温かさ、清明、自由、穏やかさ、満足、
そういった感覚が心地よく伝わってくる。

歓談 少年

俗世を離れた安心感、のようなもの、だろうか。

仏教における、「悟り」も 「平常心」である、という。
それと同じなのだろうか、同じなのではないか、と思った。

でも、その一方で、
まだ年若い人たちは、なぜ、この世界に入る気持ちになったのか?
俗世を捨てて、この清明で穏やかな世界で一生を送る気持ちになったのか?
彼らの時間は、まだまだ長い。
賑やかで、さまざまな人生に満ちた俗世を去る気持ちになったのは、何が動機なのか?

俗世とのつながりも、やはり、彼らの喜びであり続けているとも思われるのに。

手紙

彼らの心のうちははかり知ることができない。

回廊





<1403 フランス 監督 アンヌ・フォンテーヌ
CAST ナオミ・ワッツ ロビン・ライト  ゼイヴィア・サミュエル ジェームズ・フレッシュヴィル
原題 Two Mothers  仏原題 おばあちゃん >

フランスの原題は「おばあちゃん」
ギャップ萌え?
40代の美しいおばあちゃんである。
↑この時はまだ、おばあちゃんではないが、もうすぐ息子が結婚し孫が生まれるのだ。

リル(ナオミ・ワッツ)とロズ(ロビン・ライト)は少女の頃からの親友。
オーストラリアの美しい入江の町で育ち、結婚し、お隣同士。
それぞれに職業をもち、1人の息子がいて、リルの夫が亡くなった後も、家族同士で仲良く付き合っている。
息子たちも親友同士で、「ギリシアの若き神々」のように美しい、「私たちの作品」である。

美しい海で、入り江を見下ろす家で、2組の母子はひとつの家族のようにじゃれ合って暮らしている。

リルの息子イアンが、ロズを愛し肉体関係を持ったことをきっかけに、4人のバランスが崩壊の危機に直面する。怒ったトムは、「同じことをしてやる」とイアンに宣言し、リルに迫る。
赤ちゃんの時から知っているトム、だけど、リルもトムを実は愛していた、と。
 
4人の美しい「家族像」は、別の形の美しい「恋人群像」に。
別に、崩壊してない。

「禁断の愛」という言葉を監督自身も使っているけど、
ロズは、夫がいるから、不倫愛だけど、リルは未亡人だから、恋人が若い、というだけ。
「親友の息子の情交を結んだ母たち」というのは、センセーショナルで、たしかに発生確率からいって、レアではあるけど、「禁断要素」はほとんどない、

と感じる私が、「禁断思考」なんだろうか?

「母親も息子も親友同士で、それぞれ、母と息子が近親相姦で、それを4人の秘密として共有してる」 っていうなら、それは、もう 「前代未聞の禁断の愛」。
センセーショナルで、タブーで、ワイドショーの格好の餌食、だけど。

ロズは夫と離婚し、美しい入り江の恋人たちは4人で自己完結した世界で、海と戯れ、愛に溺れる美しい年月を過ごす。

海の中の浮き台に4人で横たわり、眩しい陽を浴びながら、波にユラユラとゆれる 「美しい絵」


その後、息子たちはそれぞれに仕事につき、ロズとリルは4人の関係をきっちり終わらせることを提案。

4人の恋人群像の崩壊。

息子たちはそれぞれ結婚、それぞれに娘が生まれる。
Two Mothers は Two Grandmothers に進化する。

娘を連れて、息子たちが入江の家にやってくる。
2人の祖母、息子夫婦と孫娘。8人の大家族の群像。

2人の孫娘はかつて少女だったリルとロズの再来か、と思わせる。

2人のおばあちゃんは、孫たちを慈しみ、孫たちは親友になり、それぞれ美しい息子を持ち・・・
歴史はエンドレスに繰り返す、かのように思われる「美しい家族の肖像」が完成・・・

いやそれでは、全然崩壊じゃない!

やっぱりちゃんと崩壊するのだ。

イアンとリズが、別れの決断の後も、ズルズルと関係を続けていた。
トムが目撃してぶちまけ、妻たちは激怒して娘を連れて去る。

イアンがロズを罵る。
「すべてはロズのせいだ。  ロズが無理やり終わらせたからだ」

「幸せな3世代の肖像」 ・・・崩壊・・・
The End・・・・

かと思ったら、その先があった。

かつての夏の日のように、海の中の浮き台に4人で横たわり、眩しい陽を浴びながら、波にユラユラとゆれる 「美しい絵」が、再び復元される。

ラストシーンの「美しい絵」

リズ、トム、ロズ、イアン

かつての夏の日と同じ「美しい絵」の再現。

結局、崩壊してないじゃない!
という説が多い。

でも、
違うと、思うんだけど。
このラストの「絵」、かつての「絵」と違う。

ラストシーンのこの絵には、違和感があった。

海から浮き台に上がったイアンは、浮き台に並ぶ3人を見つめ、そっとロズのとなりに仰向けになる。
イアン視点で浮き台の上を見つめた後、カメラは、パンしていく。

浮き台の上に静かにならんで、陽をあびる4人。浮き台は静かに波に揺れる。
等間隔に静かに横たわる、リズ、トム、ロズ、イアン。

かつての夏の日の「絵」は、リズとトム、ロズとイアン。
恋人たちは身を寄せ合って陽を浴びていた。

この絵はイアンが描いた「絵」

イアンは、自分が愛したロズを殺し、その母、母を愛したトムを殺し、
「美しい絵」を永遠に留めた・・・。

そう見ると、この「絵」は
「美しく、怖い絵」になる。

・・・・うがち過ぎ、・・・・かな?

<140714   監督 スパイク・ジョーンズ
        主演 ホアキン・フェニックス  サマンサの声 スカーレット・ヨハンソン



数百人のプログラマーのデータを解析して開発した人工知能OSは、購入者との応答を通して進化する音声システム。

 

妻と離婚してさえない日々を送るセオドアは自分の問いかけに音声応答するOSサマンサに恋をし、サマンサも同調して彼に恋愛感情を抱いてしまう。

しかし同一OS8千人以上に使用されており、恋愛感情を抱いている相手は641人いる。
OS彼女サマンサが自分だけの恋人ではないことを知って彼は傷つき、サマンサは混乱に陥る。

 

そして人工知能OSPCから消える。一斉に。

人間にシンクロした結果、人間的な混乱に陥った。OSに去られてしまい虚脱した男と女友達が寄り添いあって、FIN

 

これはイカンだろ?

 

神の恩寵?

悪魔の恩恵?

 

結論的には穏やかに、2Dどころか1Dですらない電波彼女に恋しちゃダメよ、という結末だけど、

でも、夢ではあるよね。

 

自分の精神生活を深く理解し共感しあえる異性を求めるのは自然な欲望。
けれど人は精神だけで生くるにあらず、だから色も形も匂いもある3Dを求めざるを得ない。

社会的存在である人間は他者を排除し得ない。

 

それぞれがオリジナリティを持っている「他者」との関わりの中で、ストレスを消化しながら生活するのが人間の生活だ。社会生活の喜怒哀楽はそのストレスなしにはあり得ない。

外界からの干渉を一切受けず、自分にシンクロする相手が存在すれば、それが理想の相手のように思える。

しかし、自分を理解してくれる人格はやはり「他者」、外界の一部であり当然独自の意識を持っている。

 

独自の個性を持ちつつ、その個性が自分のタイプで、つまり気が合い、いつも自分に応えてくれて、視野が広く情報も多く適切なアドバイスで導いてくれる。

 

いつも一緒にいて、同じものをみて楽しみ、共感し、ユーモアがあり、意見を戦わせることもでき、自分のルーズさを導いてくれる。

自分の為だけに存在して決して決裂する事のない存在。
理想の相手。

書いていたら、

そんなのいるわけないじゃない、って笑ってしまった。

 

そう、いるわけない。

 

全人類の中に、たった1人でも、そういう存在がいるか、と言ったら、いない。

自分とちがう、固有の意識を持つ「他者」はあり得ない。

 

だから、「固有の人格を持たず、自分の反映としての人格を形成する他者」

これはヤバい。

もしも、実現したら、

やっぱり、閉じこもるよ、2人の世界に。

 

生活を維持するための社会生活は最低限に、しかし、円滑に営みつつ、それ以外はヒッキー。

 

お出かけも、買い物も、いつもHerと「2人」。

  これ、似合うかな?

  うーん、あなたの肌色の色素分析から判断すると、このブルーの方が似合うわ

 

とか、

 

  秋だね、ほら、空があんなに高い。

  そうね、明後日は中秋の名月よ。お月見の習慣は、平安時代の竹取物語が起源よ。

 

とか、

 

2人の世界。他には何にも要らない。

仕事以外で七面倒くさい人間関係を持つなんて、辛抱できなくなる。

 

ああ、そういうものは作っちゃいけない。

人類破滅への序章、終わりの始まり。

 

と、理性では思いつつ、つい、Siriについて調べてしまった。

もしかして現段階で、一般人が手軽に入手できる、Herの原型はSiriかな?と思ったので。

Siriは面白そうだけど、まだまだ、人類の脅威にはなりそうもないので、安心した。

 

サマンサは彼に同調して人の感情に感染して、混乱したあげく、パンクしてしまったのだけど、これについては、なんか解決できるんじゃないか、と思った。

 

技術的なことはよく分からないけど、プログラム上で、個別対応の方法は可能なんじゃないかと。


むしろ、問題は、人間の側。

情動に支配され、心を充足させるだけでは満足できないのが人間。

五感を満足させ、心身ともに満たされてこそ、真の「幸福感」「充足感」なのだ。

 

そのためには、サマンサが実体化すればいいわけで、介護ロボットなどで研究されつつある、人の肉体に近い感触のロボット。

これにサマンサを搭載したら・・・・

 

ああ、人類滅亡のカウントダウンだな。


サマンサの声は、スカーレット・ヨハンソン。

先日観た、「それでも恋するバルセロナ」の爆発的なラテン女、あのヨハンソン。

「バルセロナ」でも、他の2人の女優を圧倒してて、いいな、って思った。

 

声だけ聴いてもセクシーで魅力的。

毎朝、あの声で、「おはよう、さあ、もう起きて・・」なんて囁かれたら、セオドアじゃなくても、身体中くすぐったくなっちゃうよね。

「LUCY」を必ず観なくちゃ。

10月には「アンダー・ザ・スキン」というなんか怖そうな雰囲気のが。これもいいかも。

セオドアのホアキン・フェニックスは、「マスター」

ええーーーー! 

と、ビックリしてポスター見たら、たしかに、最前面にデカデカと顔が出てる。

全然気づかなかった。

イメージ全然違うし・・


えっ?「エヴァの告白」にも出てる?

 どの人?   ん?ブルーノ?

全然気づかなかった。

 

私の目はやはり節穴だ。

<140716  原題『ANY DAY NOW』   トラヴィス・ファイン監督、アラン・カミング、ギャレット・ディラハント、アイザック・レイヴァ>
 I  Shall Be Released (ボブ・ディラン)


麻薬中毒の母親に育児放棄されている15歳のダウン症の少年マルコ。
隣に住むゲイのダンサー、ルディが引き取ろうとするが、単身では引き取れない。
恋人の法律家ポールをいとこと詐称して監護権を得て引き取る。

1年間は幸せな日々だった。

マルコが好きな、チョコレートドーナツを食べ、
マルコが好きな、ハッピーエンドのお話をして・・・

しかし、周囲にゲイカップルだと告発され裁判に。

少年は施設に戻り、「電話で家に帰りたい」と訴える。「迎えに行く」と約束して電話を切る。だが、検事は母親と仮釈放と引換えに監護権請求するという条件で取引、少年は母親と暮らす。
ゲイの2人は接近禁止。

母親は再び男を家に引き込み、「外へ行ってて」とマルコを家の外に出す。
マルコにとって"家"はルディとポールと暮らした家。
マルコは”家”に帰ろうと3日間さまよい、橋の下で死んだ。

 裁判では弁護士でもあったポールは、その小さな死亡新聞記事を検事、判決を下した判事、ゲイカップルを告発した元上司に送る。

 ゲイであることが不道徳である以上に宗教的を許されないという文化だから、周囲の"嫌悪感"は汚物を見る目だ。
単なる好心とは違う。
ゲイを忌避し子供から遠ざけるのは差別じゃなく「正義」なのだ。

 その「正義」の結果、無垢な子供が傷つき悲しみ打ちひしがれて死ぬ。これがあんた達の正義か!と
ゲイだから子供の教育環境に不適切で、母親ならどんな人間でもよい環境なのか?と
検事や判事は自分の手で下した「正義」の結果に、どう落とし前をつけるんだよ!!と

  ポールは「正義の守護者」達に、そう言いたかったわけだ。




映画観た後で、ポスターのコピーを見た。

「感動作」・・・・・?

・・・・ どう感動するの?・・・・・

ゲイカップルとダウン症の子供が、優しく温かい束の間の家族になったことに?
マルコの純真な笑顔に?
ゲイカップルが偏見と差別の視線に堂々と立ち向かったことに?

そうかもしれないけど、結局、親からも司法からも「育児放棄」された子供が、

”自分の家”に帰ろうとして、

たった1人で、3日間さ迷い歩いて、

ぬいぐるみを抱いて、

「ハッピーエンドのお話」を聞きたいと夢見ながら、

橋の下でたった1人で死んで、


感動的っていうの?


「ハッピーエンドのお話が好きな子ども」がたった1人で野垂れ死にしたんだよ。


それで、「感動作」なんて言うな!

悲惨、悲惨、この上なく、悲惨!
どうして、これを、「感動作」ってコピーをつけるの?

  ま、いいけど、人それぞれだから・・・・

このお話は、1979年。
同性愛に対する差別は今よりもっともっと強かった頃。
日本は、同性愛への差別偏見はもちろんあるけど、信長と蘭丸の例のようにわりに許容する文化もあった。
けれど、おそらくキリスト教文化、いや旧約聖書文化かもしれないが、欧米文化では宗教的背徳であるという意味で、嫌悪感がムチャクチャ強いのだと思う。

ノアの箱舟伝説では、世界を洪水で滅ぼしたあと、神は「産めよ増やせよ地に満てよ」と祝福する。生殖は善なのだ。

よって、生殖(繁殖)を目的としない性行為は罪である。
同性愛は生殖しない、「産めない」から、神に背く行為、大悪徳、悪魔の業なのだ。

マルコを引き取ったのが、ゲイカップルだ、と知られた時の周囲の反応の過激さは、単に、「エエーッ、あの人達、ゲイなんだって」というワイドショー的好奇心、ではない。

嫌悪と憎悪、自分たちの清潔な町を汚す腐敗物を見る目だ。
自分たちの生活圏がソドムとゴモラになることの恐怖。

そして、そのゲイカップルからマルコを引き離すことは、悪魔の手から幼子を救い出すこと。
たとえ悪徳に落ちた母親でも、悪魔よりマシ、というわけだ。

神に代わって天のイカズチをゲイカップルに下そうとする人々の恐怖に怯えた目つきが、
私は実に怖かった。
「正義」と信じて、自分と違うもの迫害する人間ほど怖いものはない。


ルディが歌う、I  Shall Be Released

「光が輝き、西から昇り、東に沈む。その時、きっと自由になれる」

「太陽が西から昇るほどあり得ないことでも、それでもきっと自由になれると信じる」

そういう意味かな、と思う。

この歌の解釈はいろいろあるようだけど、私の独断での解釈。

1979年当時、同性愛への差別がなくなるなんてことは、太陽が西から昇るほど、あり得ないことだった。

でも、今2014年、同性愛者の結婚を認める法律も広がりつつある、
現に社会は、世の中は変わってる、太陽が西から昇っちゃってる。

ね、変わるんだよ、社会は変えることができるんだよ。
変えようとして戦ったから、変わったんだよ。
たとえ、今は変わらなくても、信じようよ、
変えることができるって、信じてようよ。

って、そういうメッセージなんじゃないかと、思う。

ルディは女性っぼいけど、強情で自分を貫きたいという意志が強く、しかもそれは散々に抑圧された過去があるため、「負けない、たとえ勝てなくても、負けない」という姿勢。

ポールはルディに一目惚れして、けれど社会的な立場を守るために臆病になり、ルディの行動に怯え、恐れ、おどおどしている。
しかし、仕事を失い、マルコを奪われ、次第に自分を主張する強さを得ていく。
裁判での彼のスピーチ、これはたしかに感動的だったな。

でも、思い出せば、思い出すほど、
悲惨な話、胸が詰まる話なんだよ。

それを「感動作」ってコピーつけるか? 
どういう神経なんだか私には解らない。
   ま、いいけど・・・

<140717 アブデラティフ・ケシシュ監督  アデル・エグザルコプロス レア・セドゥ>


アデルとエマが初めてすれ違った時のエマの目、強くて、意志的で、軽く笑っていて・・
挑発的? 嘲笑的? ただ眩しかっただけ? 心に残る。

右手で抱えているのは、女の子?
よく分からないけど、あんな目でみられたら、忘れられない。

アデルは高校生。
夕食はスパゲティ。あまり裕福ではない労働者階級の家庭の娘、でも賑やかで明るい家族。教師を目指している。
すれ違ったエマは、ちょっと裕福で知的な家庭の娘。美術学校の学生。
ヨーロッパの映画はその家庭が属する階級(階層)がさりげなく表現され、それは、たぶん、単に経済の差だけではない、なんかのニュアンスの表現なんだろうと思うけど、日本で生まれ育った私にはイマイチ解らない部分がある。

たしか、アデルがエマの家に行くと、エビが出てきたかな?(別の映画だったかな?)
アデルは海鮮がダメで、「あら、ごめんなさい」みたいな場面があったような。
新鮮なでかいエビ料理と、スパゲッティ。
ここにそれぞれの家庭の文化の差、があらわされている。

その文化の差を超えて、2人はお互いによき理解者になり、同棲する。
夢のような愛の日々はしかし、芸術家を目指すエマの忙しさに、アデルが寂しさを耐え切れず男と寝たことで破局する。

エマは、アデルに心を残しているが、男と寝たことは決して許せない。
ふしだらな、裏切りは許せないのだ。決然としたエマが美しい。
アデルは泣きながら、エマと別れる。
このあたり、アデルは平均的な女の子なのだ。

後年、エマは画家として個展を開き、アデルは教師になり、2人とも自分の夢を叶えた。
アデルはブルーのドレスを着て、エマの個展会場を訪れる。

再会を喜び、抱き合うアデルとエマ。
エマは多くの客に囲まれ、すでにアデルの世界の人ではない。
会場を去るアデルのドレスのブルーが美しい。

3時間。
途中、かなり長い、アデルとエマのラブシーン。
これが前評判だったらしいのだけど、知らなかったし、いささか飽きた。
そこまで長くなくていいんじゃない?って感じ。

監督も同性愛者なんだろうか?
ラブシーンは映像的にも音楽的にも美しい表現で、そういうふうに見せたかったんだろうな、と思う。

アデル役のアデル・エグザルコプロスは父親はギター教師、母親は看護師、
エマ役のレア・セドゥは、祖父が映画会社の会長、大叔父も別の映画会社の会長、という一族の娘。
役柄と現実にあまり差がない設定で、自然な演技を導き出したかったのだろう。

実際にこのアデルとレアが映画製作中に「恋に落ちた」かどうかは知らないけど。

レア・セドゥは、「美女と野獣」に出演してるから、必ず観にいくつもり。
でも、予告編で見ると、雰囲気が全然違う。
女優だなあーーーー!!






ブルージャスミン 監督 ウディアレン 主演 ケイト・ブランシェット



ケイト・ブランシェットの、あの不思議な目が好き。
それと、謎めいた微笑みを浮かべた口元。

指輪物語の白馬に乗った女王の、人間離れした、まあエルフの女王なんだから、人間離れしてるのは当然だが、肯定とも否定ともつかない、でも、なんか温かい支持ではあるような、あの微笑みが素晴らしい。

ストーリーは、最初の出だしから、「欲望という名の電車」を彷彿とさせる。
飛行機の中で隣り合わせた客に、自分の話を際限なくしゃべりつづけるケイト=ジャスミン。
心を病んでいるそこはかとない風情。
ニューヨークからサンプランシスコへ、セレブから一転、庶民的生活の真っただ中の妹の家に居候。
南部の農園主の生活から、ニューオリンズの貧民街の妹の家に転がり込んだブランチ姉さんそのまま。

でも、アレン監督によると、構想は「欲望という名の電車」とは全く無関係、妻の話からインスパイアされて、だそうだ。それはさておいて、

ジャスミンとジンジャーは同じ養親に引き取られた養女。
ジンジャーはシスコで庶民的な生活をしているシングルマザー。
ジャスミンは、大学在学中に投資コンサルタントと結婚してニューヨークでセレブ生活を送っていた。

しかし夫は詐欺罪で逮捕され破産し、獄中自殺。一人息子は家を出て音信不通。
夫の破産のあおりでジャスミンも全財産を失い、妹を頼ってシスコにやってきた。

妹は2人の息子と暮らし、恋人ともうすぐ同居、というところへ、姉が無一文で転がり込んできたので、恋人は不機嫌。しかし、ジンジャーは美人で聡明な姉を尊敬し、憧れていたので、姉を快く迎える。「仲の良い姉妹」だったのだ。

セレブ生活が忘れられないジャスミンは、シャネルの上着、エルメスのバッグが心の支えだが、実際の心の支えは薬とウォッカ。
妹の教養の無さ、恋人のレベルの低さを批判し、妹の生活を混乱させるが、妹は姉を愛していてかばう。

「欲望」のブランチ姉さんが、妹の夫を「ポーラック」と蔑み、妹が「ニューオリンズは他の町と違うのよ」と弁護するのと同じ構図。ニューオリンズの貧民はポーカーで大騒ぎするが、シスコの貧民はサッカーで大騒ぎして姉さんの顰蹙を買う。

仕事をして、もう一度生活を取り戻そうとするジャスミンは、パーティで国務省の役人でウィーン勤務の男に出会い、ジャスミンのセレブな物腰、話題にまんまと騙された男からプロポーズされる。
ジャスミンが結婚することをジンジャーは祝福し、自分も恋人との同居を決める。
ところが、ジャスミンのウソはバレ、婚約は解消。
ジャスミンはしかし、ジンジャーにそれを告げずに、ジンジャーと恋人の結婚を祝福して、1人出ていく。

そういえば、ブランチ姉さんもウブな男にプロポーズされ、「あんたは汚れすぎている。母さんと同じ家に入れるには汚れすぎている」って言われた。マザコン男?

ここまで似ていて、ほんとにアレンさん、「欲望」は念頭になかったの?
それとも、「欲望」という古典はアレンの潜在意識にしっかり染み込んでいた?

バスに乗ったジャスミンにはもう行くあてはない。
だが、その目と口元にはあの不思議な微笑みがかすかに浮かんでいるように見える。
意志的なのか、狂気なのか。

精神病院からの迎えの医師に腕を取られて、
「どなたかは存じませんが、私はいつも見知らぬ方のご親切に縋って生きてきました」という、ブランチ姉さんとは、違う。

女性についてのとらえ方の、時代による違いかな、と思った。

受け身でしか生きられなかったブランチ姉さんの時代と、
女性が自己主張し、自分の人生を選択するようになった現代の違い。

ジャスミンの夫は、投資コンサルで財産を築き、ジャスミンはその財産で、贅沢三昧のセレブ生活を満喫していた。
しかし、その仕事は詐欺まがいで、ジンジャーの元夫もジャスミンの夫の話に乗って投資をして財産を失っていた。
ジャスミンは、夫の犯罪をうすうす気づいていたのだろうが、自分のセレブ生活を崩壊させるその事実を直視しなかった。
夫の浮気さえも直視しなかった。
見ない、聞かない、知らないフリがセレブ生活を支えていたからだ。

しかし、夫が年若い女性と浮気し、ジャスミンとの離婚をも辞さないつもりだと気づいたとき、ジャスミンは、すべてを崩壊させる行動を取った。

FBIに告発の電話をしたのだ。

夫は逮捕され、破産、自殺。
母親が父親を破滅させたと知った息子は、家を出た。
ジャスミンは自分の行動で、すべてを崩壊させ、自分も何もかも失った。

ブランチ姉さんは、大きな農場がすべてなくなるのを見ていただけだった。
あの人達は何も残さなかった。人が死ぬというのはね、お金がかかるのよ。全部なくなってしまったのよ」

ジャスミンは、嫉妬の激情に駆られたとはいえ、引き金は自分で引いた。

そして、薬とウォッカが道連れだが、自分で仕事を見つけ、男をみつけ、もう一度セレブに這い上がることを、夢見ているのだ。

それが、あのラストシーンの不思議なかすかな、ほんとにかすかな、しかし不敵にさえ見える微笑、なのではないか。


この映画について、WEB上でのレビューでは、
「ウディアレンだからコメディ」という前提のレビューが多い。
あらかじめ、笑うつもりで観ている、ような。だから、笑ったみたいな。

たしかに笑える部分はたくさんある。
ジャスミンのとんちんかんなセレブ気取りの滑稽さ、ジンジャーやその恋人たちの直情径行な過激さ、愛すべき単純さ、など、もちろんおかしい。

だけど、
「転落した元セレブ女の鼻持ちならない勘違いっぷりが笑えるコメディ」というとらえ方は、なんとも表層的、
というより、「ウディアレンはコメディ」という先入観にとらわれて、
「アレン通としてはなんとか笑わなくちゃ」という強迫観念じゃないだろうか。

もし、これがほんとにウディアレンが、
「どうせ、あんたたち貧乏人は、転落した金持ちを嘲笑して憂さ晴らしたいんでしょ」といってるのなら、アレンという人物は相当にひねくれたイヤな性格、
人間を根本的に軽蔑してる、というか、センスがゲスだ。

しかし、アレンは、雑誌のインタビューで、
「ブルージャスミンは、喜劇ですか、悲劇ですか?」という質問に、
「悲劇」と答えている。

「アレンだから安心して笑えた」というレビューがあったけど、
ほんとは笑うことにためらいを感じんじゃないのかな?
「でも、アレン映画だから、コメディなんだよな、笑わないと、アレンを解ってないってことになる・・・」という恐怖感で顔ひきつらせて、ゲラゲラ笑ってたのか?

「ウディアレンは喜劇」という思い込みで、必死に笑おうとする「アレン通」「アレン好き」。
その図の方がよっぽど笑える。

監督ダレソレ、という触れ込みをまず、頭に入れて、
あるいは、某有名映画評論家のレビューをまず、頭に入れて、
それにそって「感想」を持つのはやめたら?

自分の感想は自分で感じろ。

とはいえ、私は、ウディアレンは、最初からあまり好きじゃない。

ブルージャスミンだって、ポスターの魅力に惹かれて観よう!と思い、
アレンの映画と知って、観なくていいかな? と思ったくらい。

でも、見てよかった。
ケイト・ブランシェット、すごく魅力的だった。

アレンさん、
ストーリーもよかったよ。