江口鎮白という人物の知られざる人生
(ロシア203高地の戦場へ鎮白は大砲を持ち進む)
明治37年(1904年)。
中国・旅順の丘に、砲声が鳴り響いていました。
203高地——日露戦争最大の激戦地です。
「大砲を敵地へ運ぶ。必ずやり遂げる」
そう言って丘へ向かった若き軍人がいました。
江口鎮白、当時33歳。
倒れていく仲間たちの横を、
大砲を押しながら進んでいく。
戦場では、人の命がいとも簡単に消えていく。
どんなに強くても、どんなに若くても。
鎮白はその光景を、
目に焼き付けながら生き残りました。
「敵すら救う」という精神との出会い
(上村彦之丞の精神・敵すら救う)
日露戦争で鎮白が深く影響を受けたもうひとつの出来事があります。
海軍中将・上村彦之丞の行動でした。
蔚山沖海戦で、上村は撃沈したロシア艦の乗組員が
海に投げ出されるのを見て、こう言いました。
「敵ながら天晴れである」
そして救助を命じました。
救われたロシア兵626名は、みな涙を流したといいます。
鎮白はその後、上村家の縁戚から奥様を迎えます。
「力で制する」だけでなく
「敵すら救う」という精神が、
鎮白の人生に深く流れ込んでいきました。
戦場で死を見続けた男の心に、
「癒す」という種が静かに蒔かれていったのです。
娘を、救えなかった
(娘を失う鎮白・悲しみの中に、深い愛)
やがて鎮白に、娘が生まれました。
その娘が成長し、子どもを産んだ。
芳子、そしてその弟・正雄——のちのえぐちまおの父親です。
しかし娘は、出産後まもなく命を落としました。
軍人として地位も名誉もあった。
お金も、当時の最善の医療も尽くした。
それでも、救えなかった。
ランプの灯りだけが揺れる和室で、
鎮白は幼い孫ふたりの傍らに静かに座っていました。
芳子と、まだ赤ちゃんの正雄。
母親を知らずに生きていくことになる、
ふたりの幼子。
「力でも、お金でも、医学でも、救えないものがある」
戦場で何千もの死を見てきた男が、
娘の死の前で初めて、本当に打ちのめされたのかもしれません。
そして、手を差し伸べる人へ
(癒しの手の始まり)
1921年(大正10年)、鎮白は陸軍少将として予備役に編入されました。
軍人の道を終えた鎮白が選んだのは、
「手で人を癒す」道でした。
その鎮白が手を組んだのが、甥の江口俊博でした。
東京大学を出て甲府中学校長を務めた俊博でしたが、
実は生涯を通じて病弱で、何度も病に倒れた人でした。
だからこそ「身体を強くすること」への情熱が人一倍強かった。
俊博は日本で初めて鍛錬遠足を始めた人物でもあります。
生徒たちに歩いて身体を鍛えさせ、
そして手のひら療治を施してあげていた校長先生でした。
(日本初の鍛錬遠足・江口俊博校長)
年の近い甥が病と闘いながら懸命に生きている姿を、鎮白はずっと気にかけていたのでしょう。
ふたりは臼井霊気を共に学び、
1928年(昭和3年)、甲府で
「手のひら療治の会」 を立ち上げます。
「手のひらは、本来誰でもが持つタナソコノチカラ(自然由来の力)無料で全国に広めよう」
全国の神社仏閣・学校・公民館で、
50万人以上に無料で手当ての智慧を伝えた運動です。
豊前・中津の合元寺も、
その大切な学びの場のひとつとなりました。
鎮白はこう思っていたのではないでしょうか。
「娘を救えなかった。
でも、この手で次の誰かを救えるかもしれない」
力で守ることしか知らなかった軍人が、
最後は手のひらで命を包む人になった。
鎮白さんが遺してくれたもの
1932年(昭和7年)、江口鎮白は逝去しました。
中津・合元寺に、今もお墓が残っています。
私は何度もそのお墓の前に立ちました。
203高地を生き延びた人。
上村彦之丞の「敵すら救う」精神を身近に感じた人。
娘を失い、孫ふたりを抱えた人。
最後は手で命を癒した人。
「力ではなく、手のひらで世界を変えられる」
その信念が、百年の時を超えて
今の私に流れています。
台所から世界を癒す「キッチンファーマシー」も、
信頼の連鎖で社会を変える試みも、
すべては、あの和室でランプの灯りの中、
幼い孫ふたりに静かに手を当てていた
鎮白さんの姿から始まっているのかもしれません。
【次回予告】
第四章:「食で癒す道と、手で癒す道がつながった日」
─ 桜沢如一の妻・リマが、手のひら療治の会に通っていた ─
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