西澤弘太郎医師の名をご記憶だろうか? 2021年12月、大阪・北新地で理不尽にも患者からガソリン放火殺人事件を起こされ、26もの尊い命を巻き添えにされた心療内科の医師(当時49歳)と言えば「あゝ」と頷く方も多いはずだ。
先に、患者家族に散弾銃で射殺された鈴木純一在宅医を取り上げた事があるが、どちらの非業の死も喉元を過ぎれば誰もが記憶の底に風化させてしまうのが世の常である。だが、それを引き起こした社会的背景だけは静かに、しかも着実に、知らぬ間に人々の心を蝕み、広がり続けている事には誰も眼を向ける事がない。
事件を起こした男には妻子がいたが離婚。復縁を望むも叶わず、ならば心中をしようと息子を刺す事件を起こして殺人未遂等の罪で懲役4年の刑。出所後は前科が邪魔をして職にも就けず、さらなる孤立と困窮に陥り次第に追い詰められて自暴自棄になっていった。
男は不眠でクリニックに通い始めたが、ここまで来ると二進も三進もいかず孤立する中で他罰的な思いを募らせ、社会に対する一方的な復讐願望が膨らんで拡大自殺 を図ったというのが専らの見方である。自分を責め続けると心が持たず、自分を守るために本能的に他者に恨みを向けた結果の出来事だったという訳である。
そして再び起こった事件。事件後に押収された男のスマホには交友関係の履歴が全くなく、京都アニメ事件についての検索履歴が残っていたという。また、銀行口座残高も0で、カード会社のキャッシングも限度額に達しており身体極まった上での凶行だった。
事件当時、クリニックでは職場復帰を目指すリワーク集会が開かれており、多くの患者が集まっていた。患者第一を考えた医療態勢により朝から夜遅くまで開院し、約800名もの患者を抱え常に診察室は混んでいたという。また、建物の構造的に逃げ場所がない等いくつもの要因がマイナスに働き大きな犠牲に繋がってしまった。
西澤医師は元々内科医・産業医だったそうである。仕事に対する責任感が強く、一番多くの患者を抱えていたという。しかし診療に関わる内、精神的苦痛を抱えながら働く人の多さに驚き、夜間診療出来る医療機関がない事を痛感。精神科医としての実績を積んだ上で心療内科開業に至ったという。
患者の話をよく聴き、心優しく、患者に真摯に向き合った勤勉な医師との評判が高い。遺品整理では、膨大な量の医療に関する研究資料が見つかったそうで、その実直さが窺える。
事件後、亡き兄の遺志を継ぎ、歯科医師だった妹さんがカウンセリングの基礎を学び患者達の支援に加わっているのだそうだ。「被害者はもちろん、加害者をも救えなかった事を兄は悔やんでいるのでは」そう思いを巡らす兄妹の関係性は殊勝過ぎて切ない。
悩める人々への社会的窓口や経済支援等のセーフティネットが機能せず、最後の歯止めが掛からない限り、こうした事件は後を絶たない。明日あなたが巻き込まれない保証はない。
(敬称略)