いつからか、熊本から鹿児島にかけて広がる不知火海沿いに奇妙な病態が広がった。後の水俣病である。1932年からチッソ(現JNC)が、人体に有害な有機水銀を含んだ廃液を海に垂れ流し続けた(~68年)結果、多くの住民が手足の痙攣、目・耳に障害を負う等の甚大な被害を受けた。汚染された魚介を食した人の脳や神経が侵されて発症する、メチル水銀中毒であった。初期の劇症患者の映像を見れば、誰もがその惨さに驚愕するだろう。

 

 こうした事態を招きながら、この病態が水俣病と公式確認されたのは何と1956年の事である。68年には漸く国が加害会社チッソによる公害病と認めた。それまで患者らが被害を訴えてもチッソは有害物質を垂れ流し続け、国や県は本格的な調査さえして来なかった。実態調査をすれば、水俣の主要産業チッソの補償問題に繋がるからであった。

  72年には写真家のユージン・スミス氏がチッソ千葉工場を取材中、企業派の暴徒に襲われ脊髄損傷・片目失明の重傷を負った。こうした心ない輩の暴挙や企業の倫理欠落、それを止めようとしない行政の不作為は今でも変わらない。暴徒や企業の不祥事は後を絶たず、行政の動きは鈍いままだ。これでなぜ「国民の暮らしと命を守る」と言えるのか。

 

 死者も含め、被害者の全体像は現在でも不明。補償対象と認定された人はあまりに少なく、未だに司法頼みの救済祈願は続く。国の厳しい認定基準や、差別や偏見を恐れた潜在患者も数多いと言われ、公式認定後66年経っても完全解決を阻む壁がいくつも立ちはだかっている。これで本当に民主国家なのか。民が主の国なのか。

 水俣の問題は世界に知られ、映画にもなり、危機感が一気に広がっていった。2013年には国連会議で「水銀に関する水俣条約」を採択、水銀汚染による健康と環境被害防止を目指す事となった。水銀による汚染は水俣だけに止まらないからでもある。

 

  この水俣病患者救済に半世紀も関わった医師がいる。原田正純氏だ。熊大医学部院生だった彼は、はじめ実態調査チームとして水俣を訪れ多くの人々を診察した。直ぐにカルテに書き切れない思いが溢れる。大学で器具をいじって研究するより、1軒1軒患者宅を訪れて診察するスタイルを貫く。「そのほうが気付かぬ事も見えて来る」とTVに語った。

  そうした姿が「胎児性水俣病」の発見に繋がった。有史以来、胎盤は毒物を通さないという通説の否定を世界で初めて実証した。国に代わって大規模な実態調査を行い、常に弱い患者の立場に立ち続け「これは公害という言葉では誤魔化せない。殺人だ」と明言。医者が患者の声を代弁しなければ誰がするのかという信念の下、社会に警鐘を鳴らし続けた。

 

  2012年に彼は亡くなったが、死の間際まで患者の来診は続いたという。思うに、彼の願いは3つほどあっただろう。水俣病が完全解決する事、その記憶を絶やさない事、そしてそれを教訓として後の為政に生かす事だ。彼は亡くなったが、加害企業は今も健在だ。その傘下には誰もが知るハウスメーカーや化学会社がいくつもある。過ちを犯した者が誠意ある対応をして来なかったさらなる仕打ちを、もう既に忘れてしまったかのようだ。

  戦争中、火に追われて避難壕に逃げ込んだ原田少年、その時兵隊に銃剣で追い払われたのがトラウマになっているそうだ。助けるべき者が助けない。水俣病もまたその意識の延長上で起こった事。未曽有の悲劇ながら、原田氏のような医師がいた事だけが救いである。