医師と患者との間には、どうしても上下関係が生じやすい。「自分の知識と技術で治してやる」という思い込み。その行き着いた先が、ハンセン病の絶対隔離政策だった。それは今も深刻な人権侵害の爪痕を残している。良かれと思った事が逆の結果となる。

 

  ハンセン病(癩病=らい)は紀元前からあった。顔や手足等の変形から差別や偏見の長い歴史を引きずり、日本でも「穢れ」「遺伝」「不治」等という「忌(イミ)」の対象となってきた。患者は隠れるようにして寺社等にすがった。時を経て、明治政府も無策の中、患者に手を差し伸べたのはキリスト教宣教師だった。

 

  1897年に「国際らい会議」でらい病は遺伝ではなく、らい菌による感染症である事が医学上確認された。日本では、M医師の主導で1907年「癩予防ニ関スル件」という法律が制定。患者の隔離が始まり、その流れは次第に加速する。当時の優生思想に基づく国策により、1931年「癩予防法」と改正され、患者全員生涯隔離の法律となった。子孫を残させないため、断種や堕胎が平然と行われた。あまつさえ狡猾にも相愛互助という名目で、重症者の介護や肉体労働も課せられた。監禁さえあったという。人権蹂躙も甚だしい。

  そんな中、「らいに関する三つの迷信」として<不治・遺伝・強い感染力>を根拠のない迷信と看破し、強制隔離に一人断固反対したのが、危機感を抱いた小笠原登医師だった。その説には根拠があった。実家は浄土真宗の古刹。祖父の代からハンセン病患者を保護し、患者の隔離は必要ないと長い経験から医学的知見を得ていたからである。ところが、当時の主流であったM医師派の学会からは猛反発。「その罪万死に値する」と糾弾され、様々なバッシングを受けた。自説を撤回するよう迫られたが、小笠原氏が屈する事はなかった。

 

  戦後、外圧により新憲法が発布され、絶対隔離政策も見直しの機運にあった。ハンセン病の特効薬プロミンが出て完治する病になったからでもある。ところが日本は世界に背を向け、強制隔離を継続し続けた。M医師の意向が影響し、1953年には「改正らい予防法」まで成立させている。この頑なさは一体何なのか? 当然、国際社会から厳しい批判を受けた。

 

  21世紀になろうという直前、日本ハンセン病学会は漸く反省の見解を発表。1996年に「らい予防法」は廃止されるが、余りにも遅すぎた。2001年、熊本地裁にて元患者達の訴訟に歴史的判決が出た。国の強制隔離政策は憲法に違反する重大な人権侵害と認め、国の損害賠償を認めた。ハンセン病は特定の免疫異常反応体質の人が発症する病気、誰もが発症する訳ではないという小笠原説の正当性が証明された時、彼は既にこの世にいなかった。

 

  小笠原氏の人となりは、当時誰もしなかった患者の触診をし、僧侶としても常に傍らに寄り添い様々な支援を続けた事からも想像出来る。質素で、親切で、丁寧で、謙虚だったと患者達は口を揃えたそうだ。孤高を恐れず、権力におもねらず、不屈の生涯を送った。

  ハンセン病からは沢山の映画や小説等が生まれた。そして小笠原氏の生涯も『一人になる』という映画が昨年公開されたばかりである。

 

※文中敢えてM医師とした。「救癩の父」と謳われ文化勲章や首相の感謝状等評価する向きがある一方で、強制隔離をいつまでも継続して数多くの悲劇を招いた事も確か。決して功罪相半ばとは言えない。そのせいで、日本は世界から50年も遅れた。「善意からの犯罪」と指弾する人々も少なくない。