こうして、私は移住先の森で家を建てるプロセスを本格的に再開した。
ちなみに、家は「セルフビルド」。
徹底的に高気密高断熱にこだわった、ハウスメーカーにひけをとらない木造2階建てをセルフビルドで目指す❗️とモラ夫は張り切っていた。
モラ夫のチャレンジに面白さを感じてくれた職人さんたちが、次々に手を貸してくれた。
70代の基礎屋の大将、大将の友人の熟練大工さん、そして屋根職人さんや水道屋さん…
本当に感謝しかない。
改めて、モラ夫の人集めの手腕に脱帽した。
私には意地悪なのに、なぜこんなに協力者が集まるのだろう。
建築士さんは「施主の名前で建築確認を申請するのは初めてです~。」と笑った。
施工者の欄は、普通はハウスメーカーか工務店の名前が入るらしい。
でも、誰とも契約してないから、施主であるモラ夫の名前を書くしかないの(笑)。
法的にクリアされている図面通りに建てるのであれば、誰が建ててもOKというわけだ。
建築の許可がおりて、さあ、基礎を始めるぞ~という打ち合わせのとき、モラ夫が言った。
「ところで、Kさん(基礎屋の大将の跡取り息子)も手伝ってくれるんですよね?」
すると大将はぽかんと口をあけて言った。
「だって、セルフビルドだろ。やるのはお前。俺はアドバイザーだ。Kは他にもっと稼げる仕事をやるよ。」
「ええーっ。無理っす。いくら大将の指導があるとはいえ、俺一人でやるなんて、無理っす。」
すると大将は嬉しそうに言った。
「なーに言ってんの。marukoちゃんがいるじゃない。」
えっ?
えええええーっ?
わ、私も家の基礎造りの人工にカウントされているんですかーっ❗️
寝耳に水だ。
大蔵省(古っ)は高みの見物、私の仕事は職人さんへのお茶出しよ、と思っていたのに…。
かくして、私は女を捨てた。
WORKMANのウェアを着て長靴を履き、埃だらけになって、前後進で砂利を転圧する日々が始まった。
レベルを測り、コンパネを運び、重い重い単管を運ぶ。
「marukoちゃん、単管、その組み合わせじゃダメだ❗️それじゃあコンパネが開いちまう❗️」と大将にダメだしをもらいながら、毎日朝8時半から夕方5時まで頑張った。
コンクリートを打つときは、鉄筋の隙間に迷い込んだ蛙を必死で何匹も外に逃がした。
基礎が完成したときには、大将から「よく頑張ったな。2人ともなかなかいい動きをしてたよ。夫婦で基礎屋も出きるぞ。」とお褒めの言葉(?)をいただいた。
その後の大工仕事では、材木運びを手伝いつつ、現場の掃除を徹底した。
安全第一だ。
寒風吹きすさぶ中、モラ夫と一緒に断熱材を充填し、気密シートを貼り付けた。
大工道具や建築資材の名前なんてほとんど知らなかったけど、今ではだいたいわかるようになった。
着工から約1年半。
ようやく家に住める状態になり、先日無事に完了検査が終わった。
まだ細かい内装が続きつつ、現在に至る。
母の一周忌が終わり、私が移住先に戻るとき、父が言った。
「maruko、ありがとうね。お父さんは、お母さんが亡くなって、ずっと寂しかったんだ。
お父さんは、お母さんが入院してから亡くなるまでの3ヶ月、コロナのせいで一度もお母さんに会えなかった。70年の付き合いだったのに、生きてるうちにありがとうも言えなかったんだよ。
毎日毎日、なんで、どうして、と後悔ばかりしていた。
でも、marukoが帰ってきてくれたおかげで、寂しくなかったよ。maruko、本当にありがとう。」
もしかしたら、この半年に及ぶ別居大騒動は、母から父と私への最後のプレゼントだったのかもしれない。
母を失って失意のどん底をさ迷っていた父が少しでも元気になるように。
私とモラ夫がこの先の夫婦のあり方を今一度見直すように。
私は父に告げたとおり、家を建築中も、1~2ヶ月に1回は実家に顔を出すようにした。
滞在期間は短くなってしまったが、それくらいの頻度なら、最長8時間(❗️)にも及ぶ父の話も、邪険にすることなく聞くことができる。
モラ夫は相変わらず、私が実家に行くと言うと「親離れができていない」と嫌みを言う。
が、以前ほど辛辣ではなくなった。
そして、今のところ酒を飲んでも酒乱になるまでには至っていない。
この先、私とモラ夫がどうなるかは神様だけが知っている。
できることなら、多くの職人さんにお世話になりながら2人で一生懸命建てた家で、森を愛でながら、面白おかしく暮らしていけたらと思う。
⭐️⭐️⭐️
家の洗面所とキッチンにはこれを使いました❗️気に入ってます。
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