『或る農婦』Ⅱ
だが彼女の思いを何一つ理解しない夫は、当たり前の日々を当たり前に送っているだけだと平然と言 ってのける。
彼は自分でお茶を入れる事さえせず、やがて腰骨を折って寝たきりになった自分の父親の世話を妻にさせ、更に脳梗塞で倒れて以来、呆け始めた自分の母親の面倒さえも全て妻に任せた。
それでも彼女は夫の両親に尽くして、二人の最期を看取り、その後ガックリと肩を落として弱気になった夫さえも支えた。
そして姑たちの死後は彼女は一人で畑に出るようになった。
彼女は働き統けた。
相変わらず朝は早い。
一日中働き、少しでも貯えを増やして子供達の将来に残したいと、彼女は懸命に鍬を振るった。
やがて、子供達は成長し、大学に進学して都会で就職をした。
みんな立派になり、 真面目に働き、親の手を離れたが、誰も彼女にお礼を言う者はなかった。
いや、「そんな事は当然だ」と言う夫の言葉を肝に命じて、彼女はただただ子供達の幸福を願うようにした。
「おふくろ、一緒にくらそう」
そう言って長男が戻って来たのは、皆が家を出てから二十年の歳月が過ぎた頃だった。
そのころ、すでに彼女の夫は癌で他界し、その後も変わらず規則正しく一人暮らしを続けていた彼女は、その気楽さを手離す代わりに、すべての責任から解放される安堵を手に入れる事になった。
後継ぎが帰って来たのだ。家も土地ももういいのだ。
だが帰って来た息子夫婦の朝は遅かった。
七時に息子が起きて、七時半に二人の孫達が起きる。
嫁は、その後ゆっくりと、最後に起きてくる。
そして寝呆け顔で食パンを焼き、コーヒーを入れた。
炊飯器も湯沸かし器もタイマーをセットするだけで、朝には出米上がる。
全自動洗濯機がスイッチ一つで全ての洗濯物を洗い上げ、大型冷蔵庫の中には冷凍食品と数多くの調味料やソースが並んでいる。
都会育ちの嫁は昼間は駅前のスーパーに務め、夕方まで家には戻らない。
彼女は同居を始めて、朝はトースト、昼は前日の総菜、そして夜は見たこともない食材やドレッシングと格闘する事になった。
更にバターやクリームの香りで家中を充満させるお菓子まで登場する。
だが誰も不満は言わず、むしろ休日等はみんなで嫁を気遣い、料理を手伝ったり掃除をしたりする。
時代も変わったものだわ。
彼女は黙っていた。
それでも朝は誰よりも早く起きて新聞を読み、畑に出て野菜を摘み、台所の掃除をして洗濯機のスイッチを人れた。
彼女は、今か今かと家族の皆が起きて来るのを待ち構え、息子や孫の身仕度の手伝いのため、服を揃えて置いておく。
だがお礼の言葉は無く、代わりに、中学生になろうかという孫からの返事は、「おばあちゃん、うるさい!」
だけだった。
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