12月10日に英彦山に登った。
その振り返りもあって山の季刊誌「のぼろ」(今は廃刊)を読み返していたら大きな発見があった。
表紙
表紙の絵を見ながら、「猫ノ丸尾」「籠峠」「南岳」と、先日登った所を目で追っていた。
なにげに中央部を見ると「ちむろ谷」とあるではないか。
その名前を見つけた私は嬉しくて小躍りしそうになった。
「ちむろ谷」って実在するんだ。
単に私が知らなかっただけの話だ。
調べてみると「ちむろ谷」は「智室谷」と書き、かって山伏たちが暮らしていた集落の跡ということが分かった。
英彦山の歴史を語る上で欠かせない名前だそうだ。
なぜ「ちむろ谷」にこだわるかというと、私が好きな歌人吉井勇の短歌その名が登場するからだ。
英彦山ちむろの谷は見ざれども心は遠く空にこそ飛べ (歌集「天彦」)
「ちむろの谷」が山伏と関係の深い言葉と分かったので、この歌を自分なりに解釈してみた。
(私の解釈に対して、どなたかご助言をいただければ幸いである)
英彦山で山伏たちが命がけで修行していた修験道は途絶え、彼らが暮らしていたちむろ谷は見ようにも見られないが、彼らの精神は束縛を越え空高く舞い上がるべきだ
さて、そのちむろ谷だが今回は別ルートだったので行っていない。
しかし、初めて英彦山に登った2018年にそこを通り写真を数枚撮っていたのだ。
そこの雰囲気に感じるものがあったのだろう。
ちむろ谷
石垣
この歴史を感じさせる石垣にハッとした。
こんな山の中に何故、と。
というのも、ここまでの道が寂れた山道に過ぎなかったからだ。
奉幣殿からの道
それがここに来たらいきなり立派な石垣が現れたのだ。
石段
石垣は複数あり、ちむろの谷は特異な雰囲気を放っていた。
石垣の上は平で、かっては住居が建っていたのであろう。
今はただ木が生えているだけだった。
その木の大きさが過ぎ去った時間を物語っている。
この谷からすぐの所に虚空蔵窟がある。
虚空蔵窟
窟の前は広場になっていた。
ここも山伏たちの修行の場だったのであろうか。
やさしいお顔の石仏も建っていた。
山の中の、そのまた奥の窟ゆえに、廃仏毀釈の難を逃れたのかも知れない。
明治政府の神道政策は英彦山の修験道を壊滅させ、山伏たちを廃業に追い込んだ。
政府は国家神道政策をとり神仏習合を許さなかったのだ。
山伏たちは純粋に山に神や霊が宿ると信じ、山に分け入り厳しい修行を行うことで験力を修得し、人々を救済することを目的としていたのだが。
吉井勇が英彦山に登ったのは昭和11年6月のことである。修験道は廃止されたとはいえその名残は今より多く残っていたことだろう。なにより修験道のベースとなっていた山岳信仰は人間の素直な畏怖の感情なので、今なお受け継がれている。
勇は山上の宿坊で2泊している。英彦山の醸し出す雰囲気に畏怖の念を感じ、かってこの山で命がけの修行をした山伏たちに思いを馳せたのかも知れない。
英彦山ちむろの谷は見ざれども心は遠く空にこそ飛べ (吉井勇)
























































