歌人吉井勇が太宰府を訪ねたのは昭和11年(1936年)6月、大歌行脚の途上、博多に滞在中のことであった。
その時のことが随筆「飛梅物語」に書かれている。
「今日は太宰府に往って見ようといふことになり、今のような時節でもないので、晴れた筑紫野に自動車を飛ばせた。苅萱の関址、都府楼の跡、水城の遺蹟などにも車を留めてO君の説明を聴きながら見物した後、久しぶりに太宰府の神苑を訪ねて、艶女で名高いお石茶屋にも寄ったのであるが、その間O君の発議で、記念として飛梅の実を貰って帰らうといふことになり…」
歌集「旅塵」の「太宰府行」には
「博多淹留中の一日、友に誘われて太宰府行を試む。このあたり史跡旧址多く、懐古の情に堪へざるものあり」と詞書きがあり、7首詠まれている。
水城址
筑紫野の水城の址を見ておもふなほ胸を打つ防人の歌
大伴の旅人のわかれ思ひつつ水城を見ればこころ遙けし
この「わかれ」は大伴旅人と児島との別れのことだが、二人が詠んだ歌の碑が今の水城址には建てられている。
凡ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りいたき袖を忍びてあるかも(児島)
ますらをと思へる吾や水くきの水城のうへに涙拭(のご)はむ(大伴旅人)
勇は別の歌集にも旅人と児島の別れを詠んでいる。
遊行女(うかれめ)のわかれの歌にながしたる旅人の涙われもまた知る(歌集「人間経」)
いにしへの水城の址に来つれども旅人のごとは涙ながさず(歌集「天彦」)
都府楼跡
都府楼は太宰府の政庁の別名で、その跡地には広大な野原と当時の建物を彷彿させる巨大な礎石が残っている。
都府楼のいしづゑ石に夕日さし雲雀鳴かねど寂しきろかも
今は公園として整備されている。
お石の茶屋
あぐらして番茶をすする親しさもお石の茶屋の古床几かな
お石の茶屋には勇の歌碑が建っている。
太宰府のお石の茶屋に餅くへば旅の愁ひもいつか忘れむ
太宰府天満宮
飛梅
かしこくも飛梅の実を二つ得て衣兜(かくし)に入れぬ旅の紀念(かたみ)に
さて、この歌に詠み込まれた梅の実だが、当時勇が隠棲していた土佐の渓鬼荘で芽を出している。
そのことが勇には慶兆に感じられたのだろう。
芽の周りを「文運長久、文運長久…」と唱えながら歩き回ったと、冒頭の随筆「飛梅物語」や「土佐の飛梅」に書かれている。
まる一日を太宰府に遊んで勇は帰路につく。
博多酒戀ひつつかへる筑紫野は煙たなびき夕日あかしも
博多の宿でまた酒盛りが始まるのだろうか。
「大阪毎日の大野静馬君(随筆中のO君)の豪傑ぶりには、さすがの予も兜を脱ぎ、人生意気に感ずるとともに、痛飲夜を徹せしことも幾度なりしぞ」(「歌行脚短信」博多)









































