去年の1月25日、
私は解離を起こし
息子を殺しかけたのかもしれない。
(詳しくは→「母親失格」? まだ過去のことにはできない。)
たかが同じ日付。
それに引っ張られて
フラッシュバック起こして。
馬鹿みたい。
それでも
鮮明に思い出される記憶。
苦しい。
私は
子どもたちと離れたかったわけじゃない。
誰かに助けて欲しかった。
元夫(2番目の夫、以下元夫と書きます)に
【助けて】
って言えていたら。
子どもたちは施設に入らずに
私と元夫は離婚せずに
今でも4人で幸せに暮らせていたのかな。
『まにゃが調子悪いのは分かるけど、それで俺や子どもたちを振り回さないでくれ』
『俺がどれだけ頑張っても、お前が全部壊していく。
だからもう、頑張らない。』
元夫は常日頃からこう言って
そう言われた私は
元夫との間に高い壁を感じていた。
夫婦関係は冷めきっていて
子どもたちのためだけに夫婦でいる、
そんな状態だった。
私は元夫に相談なんてできなかった。
突き放されるのが分かっていたから。
それでも
離婚届を出した1月26日の夜、
私と元夫はいろんなことを話した。
元夫の知らない娘の名前の由来や
(娘は最初の夫との間にできた子どもです)
元夫が知らない子どもたちのいろんな姿や
私の病気のことや
本当にいろいろ話をした。
そして、
元夫は泣きながらこう言った。
『もっと早くからこうして話ができていたらこんなことにはならなかったのにな…』
『まにゃがまた子どもたちをきちんと愛せるようになったら、戻ってきてくれ。
もし病気が良くならなくても、子どもたちが独立したらまた一緒になろう。』
そう言って
外して置いといた結婚指輪を持ってきて
『これはずっと持ってて。
もしまにゃが新しい幸せを見つけたら、その時は売るなり何なり好きにしていいから。』
と言い
私の手のひらに結婚指輪を乗せ握らせた。
翌1月27日、
元夫の運転で空港まで母を迎えに行った。
空港に着いてからは
ずっと手を繋いで歩いた。
ものすごく久しぶりのことだった。
母の乗る飛行機が到着し
元夫は空港から電車で帰る時
私は人目も憚らず元夫を抱き寄せた。
「頑張ってね。
子どもたちのこと、よろしくね。」
泣きながらそう言って、元夫を見ると
元夫も涙を必死で堪えているようだった。
『こんな終わり方になってしまって申し訳ありませんでした。
まにゃさんを幸せにできなくて申し訳ありません。』
元夫は母にそう言って、
頭を下げた。
私と母は
元夫の姿が見えなくなるまで駅で見送った。
そして
私の車で約1000キロ離れた実家まで、
母と運転を交代しながら帰った。
途中一泊した。
1月28日、
私は実家に帰ってきた。
それからは
元夫と連絡という連絡は取っていない。
「養育費振り込んだよ」という報告と
『ありがとう』という返事だけ。
「子どもたちとビデオ通話をさせてくれないか」
という交渉をして
させてくれなかったことはありません。
元夫は全くと言っていいほど
姿を見せないけれど。
そのおかげか
娘(小4)も息子(3歳)も
今でも私のことを「ママ」と呼んでくれている。
元夫は
私が戻ってくることを今でも待っていてくれるのだろうか。
長期入院して
グループホームに入っている状態じゃ
子どもたちがいる県での一人暮らしなんて夢のまた夢だし
年単位で時間がかかることだけれど。
それでも、
待っていてくれるのだろうか。
子どもたちに会いたい。
元夫と話がしたい。
日付に引っ張られて
いろんなこと思い出してしまって
この記事書きながらも涙が止まらなかったけど
私の家族は
元夫と、娘と、息子。
いつかまた戻りたい。
物理的な距離があるから
そう簡単には会えないけれど
今年は
一度くらい会いに行けたらいいな。
私の昔話に付き合って
長文をここまで読んで下さりありがとうございました。
明日からはまたグループホームへ1泊2日で外泊です。
明日の10時から、明後日の16時まで。
私が笑顔でいられること。
その選択をして、
楽しくワクワクできることをしていくこと。
それが、
子どもたちに会えるための最短かつ最善の方法なんだろうな、
と最近思っています。
明日も穏やかに、笑顔で過ごせますように。
ここまで読んで下さって、
本当にありがとうございました。