前回専門学校高等課程でのことまでを書いたので、今回は卒業して出産までのことについて書きたいと思います。
2008年3月1日。
日本武道館で行われたsyrup16gの解散ライブで、私と最初の夫(以下この記事では夫と書きます)は出会いました。
元々やっていたブログで中学2年生の頃に知り合いましたが、会うのはこの時が初めてでした。
私が19歳の時でした。
その後とんとん拍子に交際が始まりました。
彼も私と同じく、不安定な人でした。
でも仕事はしっかり勤務していました。
そんなところに惹かれたんだと思います。
卒業後、私は一人暮らしをしていました。
でもやっぱり仕事は続かず、転々とアルバイトを変えていました。
そのうち調子が悪くなり、生活保護を受けることになりました。
障害者手帳はずっと持っていたので申請はすんなり通りました。
一つ問題がありました。
家賃の高い賃貸に住んでいたため、引っ越すよう言われました。
遠距離恋愛(中距離かな?)をしていた彼に相談しました。
1~2週間に一度、会っていました。
「俺も一人暮らし始めるところだから、よかったら一緒に住む?」
と言ってくれました。
2008年5月、
私は彼の元へ転がりこむ形で中距離の都会(の郊外)へ行きました。
私は引っ越した先でアルバイトを始めました。
高校生の頃やっていた全国チェーンの飲食店で働いていました。
6月末にsyrup16gのコピーバンドでのライブを控えていた私は、それまで住んでいた街へ毎週片道2時間かけて通っていました。
5月中旬に、妊娠が発覚しました。
私の甘さ故に起こったことです。
私は喜べませんでした。
「中絶する」
その選択肢しかありませんでした。
親になる覚悟なんか出来るわけない。
だけど私は当時19歳。
保護者の承諾なしで手術はできませんでした。
何より、私以外の誰もが「産んでほしい」と言っている異様な状況。
産むしかありませんでした。
体調不良をやり過ごしながら、6月末のライブをこなしました。
全15曲。とても楽しかったです。
今でもsyrup16gは私にとって特別なバンドです。
産むと決めてからも、辛い日々でした。
精神状態は安定せず。
煙草も吸っていたし、お酒もたまに飲んでいました。
精神科には通っていましたが、妊娠して薬の処方をしてもらえなくなった時点で一度自己中断しました。
薬を処方してもらえないなら通う意味がないと感じていました。
8月に入籍しました。
その日に特に意味はありませんでした。
私は悩むようになりました。
夫はモラハラ気質でした。
「お腹の子が女の子じゃなかったら殺す」
「首絞めていい?」
「俺が仕事に行ってる時不安だから、監視カメラつけようかな。」
「(精神科に一緒に来て)ここにいるやつら頭おかしいんじゃねぇの」
大きくなるお腹を殴る振りをしたり、
嫌なことがあるとお酒飲みすぎてリストカットしたり、
当時の夫も、今思えば不安定な人でした。
そんな夫とどうしたらいいのか、どんどん狭くなっていく自分の世界に恐怖を覚えながらも籠の中の鳥のようになす術もなくただ飼われているような毎日でした。
モラハラなんて言葉も知りませんでした。
10月に、切迫早産で入院しました。
転院に転院を重ね、精神科もある大学病院へ転院しました。
精神科の投薬治療が再開しました。
当時妊娠27週くらいだったと思うのですが、
「あなたに育児は出来ませんよ。
中絶は出来ませんか?
精神疾患の場合22週すぎても法的に認められてるのでできるなら中絶した方が…」
と産婦人科医に言われ、とてもショックを受けました。
その後も張り止めの点滴の量が増えていき、副作用も酷くなる一方。
私は限界でした。
自分で点滴を抜きました。
点滴を取ってもお産は進行しない、私のお腹の張りはお産に繋がらない張りだ、と変な自信がありました。
(今思えば危険極まりない行為です)
もう切迫早産の治療は出来ません
夫も、死んじゃったなら死んじゃったでいいよって言っている
もう、子どものための治療はやめたい
そう訴えて、内服での治療に変えてもらいました。
不思議なことに、お腹の張りは治まっていきました。
「あの張りは何だったんだろうねぇ」と誰もが言っていました。
そして退院。
11月末に、家の近くの精神科病院の初診の予約を入れました。
そこで、夫のモラハラを指摘されました。
私が調子悪いのは夫の影響だ。夫から離れなさい、と言われました。
そんなことも出来ず、ただその事実に愕然としていました。
12月上旬。
解離を起こしました。
大量服薬とリストカットをしていました。
自分で救急車も呼んだらしく、切迫早産で入院していた大学病院へ搬送されました。
胃洗浄を受けました。
「自分がやったんじゃないのに」
その考えに支配されました。
妊娠中禁忌の薬が大半でした。
それでも母子ともに健康。それだけが救いでした。
この一件を受けて、翌日から精神病院へ入院することとなりました。
だけど、夫から許された入院期間は3日。
金銭的な理由でした。
夫の元へ帰すわけにいかない、と判断した主治医は、両親に連絡を取りました。
3日間で退院したことにして、その後は知らん顔を通す、ということになっていました。
その後3日間入院し、その分の入院費は母が払ってくれました。
母が空港まで迎えにきてくれ、一緒に実家へ帰りました。
実家に帰り、女性相談に行きました。
警察の生活安全課にも相談に行きました。
このまま夫から逃げ切れればいい、と思っていました。
夫からたくさん連絡が入っていました。
無視し続けることが出来ませんでした。
12月下旬。
私は夫に連絡を取ってしまいました。
洗脳の元にあったんだろうな、と今となっては思います。
そして、12月末に夫が実家へ来ました。
両親と姉の前で、今までのことを謝罪してもらえました。
解決したと思いました。
そのまま年末に立会い出産しました。
夫がどうしても立ち会いたいというので、誘発剤を使っての立会いでした。
36週5日と、少し早かったですが2702gの元気な女の子が生まれました。
今思っても、地獄のような結婚生活でした。
常に夫の顔色を伺い、怯える日々でした。
次は出産後離婚するまでのことを書けたらいいなと思います。